轤閧ニ下がって、切口から黒ずんだ血がぽたぽた窓板の上に垂れているので、主人も女中も内に這入って吊るしてある麻糸をはずす勇気がなかった。
 その時「籠を卸して上げましょうか」と、とんきょうな声で云ったものがある。集まっている一同の目はその声の方に向いた。声の主は酒屋の小僧であった。岡田が蛇退治をしている間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかったが、この小僧がひとり通り掛って、括縄《くぐなわ》で縛った徳利と通帳《かよいちょう》とをぶら下げたまま、蛇退治を見物していた。そのうち蛇の下半身が麦門冬の上に落ちたので小僧は徳利も帳面も棄てて置いて、すぐに小石を拾って蛇の創口《きずぐち》を叩いて、叩く度にまだ死に切らない下半身が波を打つように動くのを眺めていたのである。
「そんなら小僧さん済みませんが」と女主人が頼んだ。小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入った。間もなく窓に現れた小僧は万年青《おもと》の鉢の置いてある窓板の上に登って、一しょう懸命背伸びをして籠を吊るしてある麻糸を釘《くぎ》からはずした。そして女中が受け取ってくれぬので、小僧は籠を持ったまま窓板から降りて、戸口に廻って外へ出た。
 小僧は一しょに附いて来た女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃ行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」と、高慢らしく忠告した。「本当に早く血をふいておしまいよ」と、女主人が云った。女中は格子戸の中へ引き返した。
 岡田は小僧の持って出た籠をのぞいて見た。一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる顫《ふる》えている。蛇に銜えられた鳥の体は半分以上口の中に這入っている。蛇は体を截《き》られつつも、最期の瞬間まで鳥を呑もうとしていたのである。
 小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」と云った。「うん、取るのは好《い》いが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」と、岡田は笑いながら云った。小僧は旨く首を抜き出して、指尖《ゆびさき》で鳥の尻を引っ張って見て、「死んでも放しゃあがらない」と云った。
 この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、揃《そろ》って隣の家の格子戸の内に這入った。
「さあ僕もそろそろお暇《いとま》をしましょう」と云って、岡田があたりを見廻した。
 女主人はうっとりと何か物を考え
前へ 次へ
全84ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング