故意にしたのでないことが明白に知れていた。そこで窓の格子を隔てた覚束《おぼつか》ない不言の交際が爰《ここ》に新しい 〔e'poque〕《エポック》 に入ったのを、この上もなく嬉しく思って、幾度《いくたび》も繰り返しては、その時の岡田の様子を想像に画《えが》いて見るのであった。
――――――――――――――――
妾も檀那の家にいると、世間並の保護の下《もと》に立っているが、囲物には人の知らぬ苦労がある。お玉の内へも或る日|印絆纏《しるしばんてん》を裏返して着た三十前後の男が来て、下総《しもうさ》のもので国へ帰るのだが、足を傷めて歩かれぬから、合力《ごうりき》をしてくれと云った。十銭銀貨を紙に包んで、梅に持たせて出すと紙を明けて見て、「十銭ですかい」と云って、にやりと笑って、「おお方間違だろうから、聞いて見てくんねえ」と云いつつ投げ出した。
梅が真っ赤になって、それを拾って這入る跡から、男は無遠慮に上がって来て、お玉の炭をついでいる箱火鉢の向うに据わった。なんだか色々な事を云うが、取り留めた話ではない。監獄にいた時どうだとか云うことを幾度《いくど》も云って、息張《いば》るかと思えば、泣言を言っている。酒の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が胸の悪い程するのである。
お玉はこわくて泣き出したいのを我慢して、その頃通用していた骨牌《かるた》のような形の青い五十銭札を二枚、見ている前で出して紙に包んで、黙って男の手に渡した。男は存外造作なく満足して、「半助でも二枚ありやあ結構だ、姉《ね》えさん、お前さんは分りの好《い》い人だ、きっと出世しますよ」と云って、覚束ない足を踏み締めて帰った。
こんな出来事があったので、お玉は心細くてならぬ所から、「隣を買う」と云うことをも覚えて、変った菜でも拵《こしら》えた時は、一人暮らしでいる右隣の裁縫のお師匠さんの所へ、梅に持たせて遣るようになった。
師匠はお貞《てい》と云って、四十を越しているのに、まだどこやら若く見える所のある、色の白い女である。前田家の奥で、三十になるまで勤めて、夫を持ったが間もなく死なれてしまったと云う。詞遣が上品で、お家流の手を好く書く。お玉が手習がしたいと云った時、手本などを貸してくれた。
或る日の朝お貞が裏口から、前日にお玉の遣った何やらの礼を言いに来た。暫く立話をしてい
前へ
次へ
全84ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング