驍、ちに、お貞が「あなた岡田さんがお近づきですね」と云った。
お玉はまだ岡田と云う名を知らない。それでいて、お師匠さんの云うのはあの学生さんの事だと云うこと、こう聞かれるのは自分に辞儀をした所を見られたのだと云うこと、この場合では厭でも知った振をしなくてはならぬと云うことなどが、稲妻のように心頭を掠《かす》めて過ぎた。そして遅疑した跡をお貞が認め得ぬ程|速《すみや》かに、「ええ」と答えた。
「あんなお立派な方でいて、大層品行が好くてお出なさるのですってね」とお貞が云った。
「あなた好く御存じね」と大胆にお玉が云った。
「上条のお上さんも、大勢学生さん達が下宿していなすっても、あんな方は外にないと云っていますの」こう云って置いて、お貞は帰った。
お玉は自分が褒められたような気がした。そして「上条、岡田」と口の内で繰り返した。
拾漆《じゅうしち》
お玉の所へ末造の来る度数は、時の立つに連れて少くはならないで、却って多くなった。それはこれまでのように極《き》まって晩に来る外に、不規則な時間にちょいちょい来るようになったのである。なぜそうなったかと云うに、女房のお常がうるさく附き纏《まと》って、どうかしてくれ、どうかしてくれと云うので、ふいと逃げ出して無縁坂へ来るからである。いつも末造がそんな時、どうもすることはない、これまで通りにしていれば好《い》いのだと云うと、どうにかしなくてはいられぬと云って、里へ帰られぬ事や、子供の手放されぬ事や、自分の年を取った事や、つまり生活状態の変更に対するあらゆる障碍《しょうがい》を並べて口説き立てる。それでも末造はどうもすることはない、どうもしなくても好いと繰り返す。そのうちにお常は次第に腹を立てて来て、手が附けられぬようになる。そこで飛び出すことになっている。何事も理窟《りくつ》っぽく、数学的に物を考える末造が為めには、お常の言っている事が不思議でならない。丁度一方が開け放されて、三方が壁で塞がれている間《ま》の、その開け放された戸口を背にして立っていて、どちらへも往《ゆ》かれぬと云って、悶え苦む人を見るような気がする。戸口は開け放されているではないか。なぜ振り返って見ないのだと云うより外に、その人に対して言うべき詞はない。お常の身の上はこれまでより楽にこそなっているが、少しも圧制だの窘迫《きんぱく》だの掣肘《せいち
前へ
次へ
全84ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング