みづ》でも好《い》い、湯《ゆ》でも茶《ちや》でも好《い》いのである。不潔《ふけつ》な水《みづ》でなかつたのは、閭《りよ》がためには勿怪《もつけ》の幸《さいはひ》であつた。暫《しばら》く見詰《みつ》めてゐるうちに、閭《りよ》は覺《おぼ》えず精神《せいしん》を僧《そう》の捧《さゝ》げてゐる水《みづ》に集注《しふちゆう》した。
 此《この》時《とき》僧《そう》は鐵鉢《てつぱつ》の水《みづ》を口《くち》に銜《ふく》んで、突然《とつぜん》ふつと閭《りよ》の頭《あたま》に吹《ふ》き懸《か》けた。
 閭《りよ》はびつくりして、背中《せなか》に冷汗《ひやあせ》が出《で》た。
「お頭痛《づつう》は」と僧《そう》が問《と》うた。
「あ。癒《なほ》りました。」實際《じつさい》閭《りよ》はこれまで頭痛《づつう》がする、頭痛《づつう》がすると氣《き》にしてゐて、どうしても癒《なほ》らせずにゐた頭痛《づつう》を、坊主《ばうず》の水《みづ》に氣《き》を取《と》られて、取《と》り逃《に》がしてしまつたのである。
 僧《そう》は徐《しづ》かに鉢《はち》に殘《のこ》つた水《みづ》を床《ゆか》に傾《かたむ》けた。そして「そんならこれでお暇《いとま》をいたします」と云《い》ふや否《いな》や、くるりと閭《りよ》に背中《せなか》を向《む》けて、戸口《とぐち》の方《はう》へ歩《ある》き出《だ》した。
「まあ、一寸《ちよつと》」と閭《りよ》が呼《よ》び留《と》めた。
 僧《そう》は振《ふ》り返《かへ》つた。「何《なに》か御用《ごよう》で。」
「寸志《すんし》のお禮《れい》がいたしたいのですが。」
「いや。わたくしは群生《ぐんしやう》を福利《ふくり》し、※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《けうまん》を折伏《しやくぶく》するために、乞食《こつじき》はいたしますが、療治代《れうぢだい》は戴《いたゞ》きませぬ。」
「なる程《ほど》。それでは強《し》ひては申《まを》しますまい。あなたはどちらのお方《かた》か、それを伺《うかゞ》つて置《お》きたいのですが。」
「これまでをつた處《ところ》でございますか。それは天台《てんだい》の國清寺《こくせいじ》で。」
「はあ。天台《てんだい》にをられたのですな。お名《な》は。」
「豐干《ぶかん》と申《まを》します。」
「天台《てんだい》國清寺《こくせいじ》の豐干《ぶかん》と仰《おつ》しやる。」閭《りよ》はしつかりおぼえて置《お》かうと努力《どりよく》するやうに、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。「わたしもこれから台州《たいしう》へ往《ゆ》くものであつて見《み》れば、殊《こと》さらお懷《なつ》かしい。序《ついで》だから伺《うかゞ》ひたいが、台州《たいしう》には逢《あ》ひに往《い》つて爲《た》めになるやうな、えらい人《ひと》はをられませんかな。」
「さやうでございます。國清寺《こくせいじ》に拾得《じつとく》と申《まを》すものがをります。實《じつ》は普賢《ふげん》でございます。それから寺《てら》の西《にし》の方《はう》に、寒巖《かんがん》と云《い》ふ石窟《せきくつ》があつて、そこに寒山《かんざん》と申《まを》すものがをります。實《じつ》は文殊《もんじゆ》でございます。さやうならお暇《いとま》をいたします。」かう言《い》つてしまつて、ついと出《で》て行《い》つた。
 かう云《い》ふ因縁《いんねん》があるので、閭《りよ》は天台《てんだい》の國清寺《こくせいじ》をさして出懸《でか》けるのである。

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 全體《ぜんたい》世《よ》の中《なか》の人《ひと》の、道《みち》とか宗教《しうけう》とか云《い》ふものに對《たい》する態度《たいど》に三通《みとほ》りある。自分《じぶん》の職業《しよくげふ》に氣《き》を取《と》られて、唯《たゞ》營々役々《えい/\えき/\》と年月《としつき》を送《おく》つてゐる人《ひと》は、道《みち》と云《い》ふものを顧《かへり》みない。これは讀書人《どくしよじん》でも同《おな》じ事《こと》である。勿論《もちろん》書《しよ》を讀《よ》んで深《ふか》く考《かんが》へたら、道《みち》に到達《たうたつ》せずにはゐられまい。しかしさうまで考《かんが》へないでも、日々《ひゞ》の務《つとめ》だけは辨《べん》じて行《ゆ》かれよう。これは全《まつた》く無頓著《むとんちやく》な人《ひと》である。
 次《つぎ》に著意《ちやくい》して道《みち》を求《もと》める人《ひと》がある。專念《せんねん》に道《みち》を求《もと》めて、萬事《ばんじ》を抛《なげう》つこともあれば、日々《ひゞ》の務《つとめ》は怠《おこた》らずに、斷《た》えず道《みち》に志《こゝろざ》してゐることもある。儒學《じゆがく》に入《
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