で、おろそかにはしない。道翹《だうげう》と云《い》ふ僧《そう》が出迎《でむか》へて、閭《りよ》を客間《きやくま》に案内《あんない》した。さて茶菓《ちやくわ》の饗應《きやうおう》が濟《す》むと、閭《りよ》が問《と》うた。「當寺《たうじ》に豐干《ぶかん》と云《い》ふ僧《そう》がをられましたか。」
道翹《だうげう》が答《こた》へた。「豐干《ぶかん》と仰《おつし》やいますか。それは先頃《さきころ》まで、本堂《ほんだう》の背後《うしろ》の僧院《そうゐん》にをられましたが、行脚《あんぎや》に出《で》られた切《きり》、歸《かへ》られませぬ。」
「當寺《たうじ》ではどう云《い》ふ事《こと》をしてをられましたか。」
「さやうでございます。僧共《そうども》の食《た》べる米《こめ》を舂《つ》いてをられました。」
「はあ。そして何《なに》か外《ほか》の僧達《そうたち》と變《かは》つたことはなかつたのですか。」
「いえ。それがございましたので、初《はじ》め只《たゞ》骨惜《ほねをし》みをしない、親切《しんせつ》な同宿《どうしゆく》だと存《ぞん》じてゐました豐干《ぶかん》さんを、わたくし共《ども》が大切《たいせつ》にいたすやうになりました。すると或《あ》る日《ひ》ふいと出《で》て行《い》つてしまはれました。」
「それはどう云《い》ふ事《こと》があつたのですか。」
「全《まつた》く不思議《ふしぎ》な事《こと》でございました。或《あ》る日《ひ》山《やま》から虎《とら》に騎《の》つて歸《かへ》つて參《まゐ》られたのでございます。そして其《その》儘《まゝ》廊下《らうか》へ這入《はひ》つて、虎《とら》の背《せ》で詩《し》を吟《ぎん》じて歩《ある》かれました。一|體《たい》詩《し》を吟《ぎん》ずることの好《すき》な人《ひと》で、裏《うら》の僧院《そうゐん》でも、夜《よる》になると詩《し》を吟《ぎん》ぜられました。」
「はあ。活《い》きた阿羅漢《あらかん》ですな。其《その》僧院《そうゐん》の址《あと》はどうなつてゐますか。」
「只今《たゞいま》も明家《あきや》になつてをりますが、折々《おり/\》夜《よる》になると、虎《とら》が參《まゐ》つて吼《ほ》えてをります。」
「そんなら御苦勞《ごくらう》ながら、そこへ御案内《ごあんない》を願《ねが》ひませう。」かう云《い》つて、閭《りよ》は座《ざ》を起《た》つた。
道翹《だうげう》は蛛《くも》の網《い》を拂《はら》ひつゝ先《さき》に立《た》つて、閭《りよ》を豐干《ぶかん》のゐた明家《あきや》に連《つ》れて行《い》つた。日《ひ》がもう暮《く》れ掛《か》かつたので、薄暗《うすくら》い屋内《をくない》を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《みまは》すに、がらんとして何《なに》一つ無《な》い。道翹《だうげう》は身《み》を屈《かゞ》めて石疊《いしだゝみ》の上《うへ》の虎《とら》の足跡《あしあと》を指《ゆび》さした。偶《たま/\》山風《やまかぜ》が窓《まど》の外《そと》を吹《ふ》いて通《とほ》つて、堆《うづたか》い庭《には》の落葉《おちば》を捲《ま》き上《あ》げた。其《その》音《おと》が寂寞《せきばく》を破《やぶ》つてざわ/\と鳴《な》ると、閭《りよ》は髮《かみ》の毛《け》の根《ね》を締《し》め附《つ》けられるやうに感《かん》じて、全身《ぜんしん》の肌《はだ》に粟《あは》を生《しやう》じた。
閭《りよ》は忙《せは》しげに明家《あきや》を出《で》た。そして跡《あと》から附《つ》いて來《く》る道翹《だうげう》に言《い》つた。「拾得《じつとく》と云《い》ふ僧《そう》は、まだ當寺《たうじ》にをられますか。」
道翹《だうげう》は不審《ふしん》らしく閭《りよ》の顏《かほ》を見《み》た。「好《よ》く御存《ごぞん》じでございます。先刻《せんこく》あちらの厨《くりや》で、寒山《かんざん》と申《まを》すものと火《ひ》に當《あた》つてをりましたから、御用《ごよう》がおありなさるなら、呼《よ》び寄《よ》せませうか。」
「はゝあ。寒山《かんざん》も來《き》てをられますか。それは願《ねが》つても無《な》い事《こと》です。どうぞ御苦勞《ごくらう》序《ついで》に厨《くりや》に御案内《ごあんない》を願《ねが》ひませう。」
「承知《しようち》いたしました」と云《い》つて、道翹《だうげう》は本堂《ほんだう》に附《つ》いて西《にし》へ歩《ある》いて行《ゆ》く。
閭《りよ》が背後《うしろ》から問《と》うた。「拾得《じつとく》さんはいつ頃《ごろ》から當寺《たうじ》にをられますか。」
「もう餘程《よほど》久《ひさ》しい事《こと》でございます。あれは豐干《ぶかん》さんが松林《まつばやし》の中《なか》から拾《ひろ》つて歸《かへ》られた捨子《すてご》でございます。」
「はあ。
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