みづ》でも好《い》い、湯《ゆ》でも茶《ちや》でも好《い》いのである。不潔《ふけつ》な水《みづ》でなかつたのは、閭《りよ》がためには勿怪《もつけ》の幸《さいはひ》であつた。暫《しばら》く見詰《みつ》めてゐるうちに、閭《りよ》は覺《おぼ》えず精神《せいしん》を僧《そう》の捧《さゝ》げてゐる水《みづ》に集注《しふちゆう》した。
 此《この》時《とき》僧《そう》は鐵鉢《てつぱつ》の水《みづ》を口《くち》に銜《ふく》んで、突然《とつぜん》ふつと閭《りよ》の頭《あたま》に吹《ふ》き懸《か》けた。
 閭《りよ》はびつくりして、背中《せなか》に冷汗《ひやあせ》が出《で》た。
「お頭痛《づつう》は」と僧《そう》が問《と》うた。
「あ。癒《なほ》りました。」實際《じつさい》閭《りよ》はこれまで頭痛《づつう》がする、頭痛《づつう》がすると氣《き》にしてゐて、どうしても癒《なほ》らせずにゐた頭痛《づつう》を、坊主《ばうず》の水《みづ》に氣《き》を取《と》られて、取《と》り逃《に》がしてしまつたのである。
 僧《そう》は徐《しづ》かに鉢《はち》に殘《のこ》つた水《みづ》を床《ゆか》に傾《かたむ》けた。そして「そんならこれでお暇《いとま》をいたします」と云《い》ふや否《いな》や、くるりと閭《りよ》に背中《せなか》を向《む》けて、戸口《とぐち》の方《はう》へ歩《ある》き出《だ》した。
「まあ、一寸《ちよつと》」と閭《りよ》が呼《よ》び留《と》めた。
 僧《そう》は振《ふ》り返《かへ》つた。「何《なに》か御用《ごよう》で。」
「寸志《すんし》のお禮《れい》がいたしたいのですが。」
「いや。わたくしは群生《ぐんしやう》を福利《ふくり》し、※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《けうまん》を折伏《しやくぶく》するために、乞食《こつじき》はいたしますが、療治代《れうぢだい》は戴《いたゞ》きませぬ。」
「なる程《ほど》。それでは強《し》ひては申《まを》しますまい。あなたはどちらのお方《かた》か、それを伺《うかゞ》つて置《お》きたいのですが。」
「これまでをつた處《ところ》でございますか。それは天台《てんだい》の國清寺《こくせいじ》で。」
「はあ。天台《てんだい》にをられたのですな。お名《な》は。」
「豐干《ぶかん》と申《まを》します。」
「天台《てんだい》國清寺《こくせいじ》の豐干《ぶかん
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