ります。実は普賢《ふげん》でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟《せきくつ》があって、そこに寒山《かんざん》と申すものがおります。実は文殊《もんじゅ》でございます。さようならお暇《いとま》をいたします」こう言ってしまって、ついと出て行った。
こういう因縁があるので、閭は天台の国清寺をさして出かけるのである。
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全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々|役々《えきえき》と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着《むとんじゃく》な人である。
つぎに着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督《クリスト》教に入っても同じことである。こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわ
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