のない医者にかかっていたのだから、ろくな薬は飲ませてもらうことが出来なかったのである。今乞食坊主に頼む気になったのは、なんとなくえらそうに見える坊主の態度に信を起したのと、水一ぱいでする咒なら間違ったところで危険なこともあるまいと思ったのとのためである。ちょうど東京で高等官連中が紅療治《べにりょうじ》や気合術に依頼するのと同じことである。
 閭は小女を呼んで、汲みたての水を鉢《はち》に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見つめた。清浄な水でもよければ、不潔な水でもいい、湯でも茶でもいいのである。不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪《もっけ》の幸いであった。しばらく見つめているうちに、閭は覚えず精神を僧の捧げている水に集注した。
 このとき僧は鉄鉢の水を口にふくんで、突然ふっと閭の頭に吹きかけた。
 閭はびっくりして、背中に冷や汗が出た。
「お頭痛は」と僧が問うた。
「あ。癒《なお》りました」実際閭はこれまで頭痛がする、頭痛がすると気にしていて、どうしても癒らせずにいた頭痛を、坊主の水に気を取られて、取り逃がしてしまったのである。
 僧はしずかに鉢に残った水を床に傾けた。そして「そんならこれでお暇《いとま》をいたします」と言うや否や、くるりと閭に背中を向けて、戸口の方へ歩き出した。
「まあ、ちょっと」と閭が呼び留めた。
 僧は振り返った。「何かご用で」
「寸志のお礼がいたしたいのですが」
「いや。わたくしは群生《ぐんしょう》を福利し、※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《きょうまん》を折伏《しゃくぶく》するために、乞食《こつじき》はいたしますが、療治代はいただきませぬ」
「なるほど。それでは強《し》いては申しますまい。あなたはどちらのお方か、それを伺っておきたいのですが」
「これまでおったところでございますか。それは天台の国清寺で」
「はあ。天台におられたのですな。お名は」
「豊干《ぶかん》と申します」
「天台国清寺の豊干とおっしゃる」閭はしっかりおぼえておこうと努力するように、眉をひそめた。「わたしもこれから台州へ往くものであってみれば、ことさらお懐かしい。ついでだから伺いたいが、台州には逢いに往ってためになるような、えらい人はおられませんかな」
「さようでございます。国清寺に拾得《じっとく》と申すものがお
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