ります。実は普賢《ふげん》でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟《せきくつ》があって、そこに寒山《かんざん》と申すものがおります。実は文殊《もんじゅ》でございます。さようならお暇《いとま》をいたします」こう言ってしまって、ついと出て行った。
こういう因縁があるので、閭は天台の国清寺をさして出かけるのである。
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全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々|役々《えきえき》と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着《むとんじゃく》な人である。
つぎに着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督《クリスト》教に入っても同じことである。こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念《あきら》め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠《せいこく》を得ていても、なんにもならぬのである。
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閭は衣服を改め輿《よ》に乗って、台州の官舍を出た。従者が数十人ある。
時は冬の初めで、霜が少し降っている。椒江《しょうこう》の支流で、始豊渓《しほうけい》という川の左岸を迂回しつつ北へ進んで行く。初め陰《くも》っていた空がようよう晴れて、蒼白《
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