たので、かかりつけの医者の薬を飲んでもなかなかなおらない。これでは旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいかと言って、女房と相談していると、そこへ小女が来て、「只今《ただいま》ご門の前へ乞食坊主《こじきぼうず》がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しますがいかがいたしましょう」と言った。
「ふん、坊主か」と言って閭はしばらく考えたが、「とにかく逢ってみるから、ここへ通せ」と言いつけた。そして女房を奧へ引っ込ませた。
元来閭は科挙に応ずるために、経書《けいしょ》を読んで、五言の詩を作ることを習ったばかりで、仏典を読んだこともなく、老子を研究したこともない。しかし僧侶や道士というものに対しては、なぜということもなく尊敬の念を持っている。自分の会得《えとく》せぬものに対する、盲目の尊敬とでも言おうか。そこで坊主と聞いて逢おうと言ったのである。
まもなくはいって来たのは、一人の背の高い僧であった。垢《あか》つき弊《やぶ》れた法衣《ほうえ》を着て、長く伸びた髪を、眉の上で切っている。目にかぶさってうるさくなるまで打ちやっておいたものと見える。手には鉄鉢《てっぱつ》を持っている。
僧は黙って立っているので閭が問うてみた。「わたしに逢いたいと言われたそうだが、なんのご用かな」
僧は言った。「あなたは台州へおいでなさることにおなりなすったそうでございますね。それに頭痛に悩んでおいでなさると申すことでございます。わたくしはそれを直して進ぜようと思って参りました」
「いかにも言われる通りで、その頭痛のために出立の日を延ばそうかと思っていますが、どうして直してくれられるつもりか。何か薬方でもご存じか」
「いや。四大の身を悩ます病は幻でございます。ただ清浄な水がこの受糧器に一ぱいあればよろしい。咒《まじない》で直して進ぜます」
「はあ咒をなさるのか」こう言って少し考えたが「仔細あるまい、一つまじなって下さい」と言った。これは医道のことなどは平生深く考えてもおらぬので、どういう治療ならさせる、どういう治療ならさせぬという定見がないから、ただ自分の悟性に依頼して、その折り折りに判断するのであった。もちろんそういう人だから、かかりつけの医者というのもよく人選をしたわけではなかった。素問《そもん》や霊枢《れいすう》でも読むような医者を捜してきめていたのではなく、近所に住んでいて呼ぶのに面倒
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