、今一つは深い霧を冒して寂しい夜道をさまよつて、人懐しい係恋《あこがれ》の情を起してゐるのとに依つて、この憂愁の趣は現はれてゐるのだらう。それが己の今夜の心持と調和して、己に同情を起させるのだらう。
その内客は上着を脱がずに煖炉の上に肘を突いて、隠しから煙管《きせる》を出した。そしてそれに煙草を詰めながら己の顔を念入りに眺めて云つた。「御免なさいよ。」
己も客を注意して見て答へた。「いや、遠慮しなくても好いのです。」
「こんなに出し抜けに飛び込んで来て済みません。只少し火に当らせて戴いて、煙草を一服喫んでしまへば、直ぐに出て行きます。こゝから二ヱルスト程の所に、いつもわたくしを泊めてくれるものがゐますから。」
話の調子で察するに、この男は人に迷惑を掛けまいと、控へ目にする心掛けを持つてゐるらしい。そして物を言ひながら、ちよい/\丁寧に己の顔を見るのは、己の返事を待つて、その上で自分の態度を極めようと思つてゐるからだらう。
その冷かな、物の奥を見通すやうな目附きを、詞《ことば》に訳して言へば、「魚心あれば水心だ」とでもいふべきだらう。兎に角ヤクツク人なんぞの人に迷惑を掛けて平気な
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