つて、いつでも人を殺すのではない。我々と同じやうに生きてゐて、同じやうな感じを持つてゐる。それだから寒い夜に自分を暖かい天幕の中へ泊まらせてくれる人に対して、感謝するといふ念をも持つてゐる。併し己の目に、今来た人間が立派な鞍を置いた馬を連れてゐて、その鞍に色々な荷物が括り付けてあるのが見えたところで、その人間がその馬の正当な持主であるやら、又その荷物の中にあるものが、その人間の正当な所有品であるやら、そんな事は容易に判断しにくいのである。
馬の革で張つた、重くろしい戸が外から開けられた。中庭から白い霧が舞ひ込んで来る。その時旅人は煖炉の前へ進んだ。背の高い、肩幅の広い、立派な男である。衣服はヤクツク人と同じであるが、人種の違ふ事は一目に分かる。足には雪のやうに白い馬皮《ばひ》製の長靴を穿いてゐる。ヤクツク人の着る寛《ゆる》い外套が肩で襞を拵へて、耳まで隠してゐる。頭と頸とは大きなシヨオルで巻いてある。そのシヨオルの下の端は腰の周囲《まはり》に結んである。シヨオルもその外の衣類も、山の高い、庇のない帽も氷で真つ白になつてゐる。
二
客は煖炉の側に寄つて、凍《こゞ》えた指で不細工にシヨオルの結目を解いて、それから帽の革紐を解いた。シヨオルと帽とを除《の》けたところで顔を見ると、三十歳ばかりの男の若い、元気の好い顔が寒さで赤くなつてゐる。卑しいやうで、しつかりした容貌である。こんな顔の人をこれまで押丁《おうてい》なんぞで見た事がある。総て人に対して威厳を保ち、人を恐れさせてゐるが、その癖自分は不断用心してゐなくてはならないといふ風の男にこんな容貌があり勝ちに思はれる。表情に富んだ、黒い目が、ちよい/\と、物の底まで見抜くやうな見方をする。顔の下の半分が少し前に出てゐる。これは感情の猛烈な人相である。併しこの男はその感情を抑へて縦《ほしいまゝ》にしないやうに修養してゐるらしい。身分が流浪人だといふ事は直ぐ分かる。どこで分かるといふ事は言はれないが、一目で分かる。この男の心が不安で、心の中で争闘が絶えないといふ事だけは、下唇がぶる/\するのと、所々の筋肉が神経性に働くのとで判断する事が出来る。
顔の表情は大体からいへば、そつけないのであるが、どこかそれを調和してゐるものがある。それは一種の憂愁を帯びてゐるところに存する。多分疲れたのと、夜の寒さと戦つたのと、今一つは深い霧を冒して寂しい夜道をさまよつて、人懐しい係恋《あこがれ》の情を起してゐるのとに依つて、この憂愁の趣は現はれてゐるのだらう。それが己の今夜の心持と調和して、己に同情を起させるのだらう。
その内客は上着を脱がずに煖炉の上に肘を突いて、隠しから煙管《きせる》を出した。そしてそれに煙草を詰めながら己の顔を念入りに眺めて云つた。「御免なさいよ。」
己も客を注意して見て答へた。「いや、遠慮しなくても好いのです。」
「こんなに出し抜けに飛び込んで来て済みません。只少し火に当らせて戴いて、煙草を一服喫んでしまへば、直ぐに出て行きます。こゝから二ヱルスト程の所に、いつもわたくしを泊めてくれるものがゐますから。」
話の調子で察するに、この男は人に迷惑を掛けまいと、控へ目にする心掛けを持つてゐるらしい。そして物を言ひながら、ちよい/\丁寧に己の顔を見るのは、己の返事を待つて、その上で自分の態度を極めようと思つてゐるからだらう。
その冷かな、物の奥を見通すやうな目附きを、詞《ことば》に訳して言へば、「魚心あれば水心だ」とでもいふべきだらう。兎に角ヤクツク人なんぞの人に迷惑を掛けて平気なのと、この男の態度とはまるで違つてゐるといふ事に、己は気が付いた。無論己にだつてこの男が宿を借らない積りなら、馬を厩に引き込む筈がないといふ事だけは分からないのではない。
「一体お前さんは誰ですか。名前は。」
「わたくしですか。名はバギライと言ひます。これはこの土地で人がわたくしを呼ぶ時の名で、本当の名はワシリです。バヤガタイ領のものです。聞いてゐやしませんか。」
「ウラルで生れた流浪人だらう。」
客の顔には満足らしい微笑がひらめいた。「さうです。では何か聞いてゐますね。」
「○○に聞いたのだ。あの男の近所に住まつてゐた事があるさうだね。」
「○○ならわたくしを知つてゐますよ。」
「宜しい。今夜は泊つて行くが好い。まあ、支度を楽にしようぢやないか。己も今は一人でゐるのだ。お前さんが体を楽にする間に、己は茶でも拵へよう。」
流浪人は嬉しげに泊る事にした。
「どうも済みません。あなたが泊めて遣ると仰やれば、泊りますよ。それでは鞍に付けてある袋を卸して、ちよいちよいした物を出さなくてはなりません。馬は中庭まで入れてはありますが、さうして置く方がたしかです。こゝいらの人間には油断がなりませ
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