まつてゐる。己は屋根の上に立つてゐる。広い広い大洋の中の離島《はなれじま》にゐるやうな気がする。只側に粘土《ねばつち》で下手に築き上げた煙突が立つてゐて、足の下に犬が這ひ寄つてゐるだけである。物音がまるで絶えて、どこもかしこも寒くて気味が悪い。夜が沈黙して、世界に羽を広げてゐるのである。
ケルベロスがうなつた。多分ひどい寒《かん》が来さうなので、嘆いてゐるのであらう。犬は体を己の足に摩り寄せて、鼻端《はなつら》を突き出して、耳を立てて、闇の中に気を配つてゐる。
突然犬が耳を動かして吠えた。己も耳を欹てた。暫くは何も聞えなかつた。その内静寂を破つて、或る音が聞えた。又聞えた。あれは馬の蹄の音である。まだ遠い畑の上を歩いてゐるらしい。
あの音の工合で察するに、馬に乗つて歩いてゐる人間はまだ二ヱルスト位隔たつてゐる筈だ。己はかう思つて雪の階段を踏んで降りた。顔を剥き出しにして一分間この寒い空気に当つてゐると、頬か鼻かが凍《こゞ》えてしまふ危険がある。犬も、蹄の音の聞える方角へ向いて吠え続けながら、己に付いて降りて来た。
間もなく焚き付けた薪《たきゞ》が煖炉の中で燃え始めた。その薪を兼ねて煖炉の中に積み上げてある薪の山に近寄せると、部屋中の摸様が、今までとはまるで変つて来る。ぱちぱちいふ音が、天幕の沈黙を破る。幾百条の火の舌が薪の山の間々を潜つて閃き昇つて行く。その勢で例のぱちぱちいふ音がするのである。兎に角或る生々したものが飛び込んで来て、部屋の隅々まで荒れ廻るやうな気がする。折々ぱちぱちが止むと、煙突の口から寒空へ立ち昇る火の子のぷつぷついふのが聞える。
間もなく薪の山のぱちぱちが一層劇しく盛り返して来て、とうとう拳銃をつるべ掛けて打つやうな音になる。
もう己もさつき程寂しい心持はしない。己の周囲《まはり》の物が、何もかも生き返つて、動き出す。踊り出す。さつきまで外の寒さを微かに見せてゐた窓硝子《まどガラス》が、火を反射してあらゆる色に光つてゐる。あたりが一面に闇に包まれてゐる中で、己の天幕が光り赫いて、小さい火山のやうに数千の火の子を噴き出すと、それがちらちら空気の中を踊り廻つて、とうとう白い煙の中で消えるのである。己はそれを想像して好い心持がしてゐる。
ケルベロスは煖炉の正面に蹲《うづくま》つて白い色の化物のやうに、ぢつと火を見詰めてゐる。折々振り返つて己の方を見る、その目には感謝と忠実とが映じてゐる。
どこかで重々しい足音がした。併し犬はぢつとしてゐる。それは飼つてある馬だといふ事を知つてゐるからである。今までどこか屋根の下で、首を頂垂《うなだ》れて寒さにいぢけてゐるのが、煖炉が温まつたので、火に近い方へ寄つて来て、煙突から出る白い煙の帯と、面白く飛び廻る火の子とを眺めてゐるのであらう。
その内犬が不満らしい様子をして吠えて、直ぐに戸口へ歩いて行つた。己は戸を開けて出して遣つた。犬はいつもの番をする場所で吠えてゐる。己は中庭を覗いて見た。さつき遠くに蹄の音を響かせてゐた人間が、己の天幕の火の光に誘はれて来たのである。丁度今門を開けて、鞍に荷物の付けてある馬を引き入れてゐる所である。
知人《しりびと》でない事は分かつてゐる。ヤクツク人はこんなに遅くなつて村に来る筈がない。よしやそれが来たところで、同じ種族のものの所へ寄るに違ひない。火の光を当にして、己のやうな外国人の天幕へ来はしない。
「どうしても移住民だな」と己は判断した。そんなものの来るのはいつもなら難有くはない。併しけふだけは生きた人間を見たいやうな気がする。
今に面白く燃えてゐる火は消えてしまふ。薪の山を潜つてゐる焔が次第にのろくなつて、とうとう一山の赤い炭が残つて、その上を青い火の舌がちよろちよろするやうになる。その青い舌が段々見えなくなる。さうすると天幕の中は元の沈黙と暗黒とに占領せられてしまふだらう。その時己の胸の中には、又さつきのやうな係恋《あこがれ》が萌して来るだらう。その時分には赤い炭が灰を被つて微かに見えてゐて、それもとうとう見えなくなつてしまふだらう。己は一人になるだらう。一人で長い静かな、物懐しい夜《よ》を過ごさなくてはならないだらう。
こんな時に人間を恋しがるのは好いが、その人が人殺しでもした事のある奴かも知れない。併し己はそんな事は思はない。一体シベリアに住んでゐると人殺しでも人間だといふ感じがして来る。勿論段々心易くして見たつて、錠前を切つたり、馬を盗んだり、暗夜に人の頭を割つたりする人間が、所謂《いはゆる》不幸なる人間として理想化して見られるやうになるわけでもないが、兎に角人間には色々な、込み入つた衝動や意欲があるものだといふ事が理解せられて来る。人間はどんな時にどんな事をするものだといふ事が理解せられて来る。人殺しだ
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