んからね。中でも韃靼人《だつたんじん》と来ては。」
客は戸の外へ出て、直ぐに大袋を二つ持つて這入つて来て、革紐を解いて、食料を取り出した。氷つて固まつたバタ、氷つた牛乳、玉子二三十なんぞである。中で幾らか取り分けたのを部屋の棚に載せて、跡を冷い所に置く為めに、前房へ持ち出した。それからカフタンといふ上着と毛皮とを脱いで、赤い肌着に、土地の者の穿くずぼんを穿いたまゝで、己と向き合つて煖炉の側に腰を掛けた。
客は微笑《ほゝゑ》みながら云つた。「妙なものですね。正直を言へば、お内の門《かど》を通りながら、さう思ひましたよ。この内で己を泊めてくれるか知らと思ひましたよ。流浪人の中には泊めて遣る事なんぞの出来ない奴がゐるといふ事は、わたくしだつて好く知つてゐます。自慢ではありませんが、わたくしはそんな人間とは違ひます。あなたも話を聞いてお出でのやうですから、御承知でせうが。」
「うん。少し聞いてゐるよ。」
「さうでせう。自慢ではないが、わたくしは横着な事はしてゐません。自分の内の小屋の中に牡牛を一疋、牝牛を一疋、馬を一疋だけは飼つてゐて、自分の畑《はた》を作つてゐます。」
目は正面を見詰めたまゝで、変な調子でこんな事を言つてゐる。話の跡の方の詞を言つてゐる様子は、「実際さうしてゐるのだ」と、自分で考へて見ながら言ふらしく見えた。
客は語り続けた。「働いてゐますよ。神が人間にお言附けになつた通りに働いてゐるのです。どうも盗みをしたり、人殺しをしたりするよりは、その方が好いやうです。早い証拠が、かうして夜夜中あなたの内の前を通つて、火の光を見て這入つて来れば、優しくして泊めて下さる。難有いわけぢやありませんかねえ。」
この詞はどちらかと云へば、独語《ひとりごと》らしく聞えたのである。自分の今の生活に満足して、独語を言つてゐるやうに見えたのである。併し己は「それはさうだね」と返事をした。
実際己はワシリといふ男の事を、知人《しりびと》から少し聞き込んでゐる。ワシリはこの辺に移住してゐる流浪人仲間の一人である。ヤクツク領の内で、大ぶ大きい部落の小家《こいへ》に二年程前から住つてゐる。家は湖水の側で、森の中に立つてゐる。移住民の中に、盗賊もあり、人殺しをするものもあり、懶惰人《らんだじん》が頗る多いが、稀に農業に精出すものもないではない。ワシリはその一人である。農業を精出せば、この土地では相応に楽に暮されるやうになるのである。
一体ヤクツク人は人の善い性《たち》で、所々の部落で余所《よそ》から来たものに可なりの補助をして遣る風俗になつてゐる。実はこんな土地へ、運命の手に弄《もてあそ》ばれて来たものは、補助でも受けなくては、飢ゑ凍えて死ぬるか、盗賊になるかより外に為方《しかた》がないのである。ヤクツク人は又土地を通り抜けるものにも補助をして遣る事がある。それは足を留められては厄介だと思ふからである。さういふ補助を受けて、土地を立つて行つたもので、又帰つて来るものはめつたに無い。そんなのでなく、真面目に働かうと思ふものには、土人が補助をして、間もなく相応に自活の出来るやうにさせる事になつてゐる。
最初ワシリは部落の自治団体から小屋を一つ、牡牛を一疋貰つて、その年に燕麦《からすむぎ》の種を六ポンド貰つた。為合《しあは》せとその年は燕麦の収穫が好かつた。その外ワシリは、土地のものと契約して、草を苅らせて貰つた。煙草の商ひもした。こんな風にして二年立つ内に相応な世帯が出来たのである。
土地のものはこの男を相応に尊敬して、面と向つてはワシリ・イワノヰツチユさんといふが、蔭で噂をする時は、只ワシリといふ丈である。牧師が冠婚葬祭の用で歩く時などは、ワシリの小屋へ立ち寄る。それからワシリが牧師を尋ねて行くと、食卓で馳走をする。この土地では我々のやうに教育のあるものが、余所から移住したのを、読書人として特別に取り扱ふのだが、その読書人にもワシリは心易くしてゐる。
そんな風で見れば、ワシリは面白く、満足して暮してゐられない筈がない。十分な事を言へば、これから結婚でもすべきだらう。一体法律は流浪人の結婚を許さない事になつてゐるが、こんな辺鄙では、金を出して、慇懃に頼めばそれも出来ない事ではない。
かういふ身の上のワシリではあるが、今向き合つて坐つて見てゐると、そのしつかりした顔付に、多少異様な所がある。最初ちよいと見た時程には、もう己には気に入らなくなつたが、それでもまだ厭な顔だとは思はない。黒目勝の目が折々物案じをするらしく、又物分かりの好ささうに見える事がある。総ての表情が意志の固い所を示してゐる。挙動は陰険らしくない。声の調子からは自信のある人の満足が聞き出される。
只折々顔の下の方がぴくぴく引き吊つて、目の色がどんよりして来る事がある。不
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