が利かなくなつては駄目だ。あの海の凄い音を聞いてくれ。」

     五

 第七号舎からこれまでそこに住んでゐた囚人を出して、その跡へ今度来たのを入れて、最初の間出口に番兵を付けて置いた。もし番兵を付けなかつたら、これまで厳しく見張をせられてゐた癖が付いてゐるから、それが無くなつた為め、小屋から出した小羊の群のやうに、直ぐに島中にちらばつてしまふからである。
 もう久しい間島に置いてある囚人なら、見張なんぞをするには及ばない。さういふ囚人は土地の様子を精《くは》しく考へてゐるから逃げようとはしない。この島で逃げ出すのは、随分思ひ切つた為事《しごと》で、逃げたものはきつと死ぬると云つても好い位である。たまに逃亡を企てるものもあるが、それは余程決心した人間で、その決心も熟考した上の事である。そんなのを番兵で取り締まらうとしても駄目である。どうしたつて、逃げようと思へば逃げるし、又無理に留めて置いても苦役には服せない。
 島に来てから三日目に、ワシリはブランに言つた。「お前に相談するのだが、どうだらう。己達の仲間では、お前が一番年上だ。お前が先に立つて指図してくれなくてはならない。糧食の用意もしなくてはなるまいな。」
 ブランは元気のない様子をして答へた。「己も格別相談相手にはなるまいよ。随分むづかしい為事だ。もう己の年では柄にない。だからお前自分で遣らなくては駄目だ。これから三日程立つと、幾組にも分けて為事に出されるだらう。この監獄の外に出るだけなら、その時勝手に出されるのだ。だが品物は持ち出す事が出来ない。どうするが好いといふ事は、お前考へて見なさい。」
「さう云はないで、お前考へて見てくれ。お前の方が馴れてゐるのだから。」
 かう云はれたが、ブランは不熱心で、不機嫌で、只ぶら/\歩いてゐる。誰とも話をしない。どうかすると空《くう》を見て独語《ひとりごと》を言つてゐる。これで三度目に樺太を脱ける筈のこの年寄の流浪人は、見る見る弱つて行くらしい。
 彼此する内に、ワシリはブランの外に十人の同志を糾合した。いづれ劣らぬ丈夫な男である。そこでブランを捉まへて、元気を付けるやうにして、これまでのやうに冷淡でゐずに、逃亡の計画を立てゝ貰ひたいと云つて迫つた。折々はブランも話に乗つて来た。併し色々話した末には、どうも脱ける事はむづかしいとか、今度の企の不成功になるらしい前兆があるとか云ふやうな事を云つてゐる。
「どうも己はこの島から外へは出られさうでないよ」と云ふのが老人の口癖で、この詞で絶望の心持を表白してゐるのである。
 折々元気が好いと、老人も昔脱獄を為遂《しと》げた時の事を思ひ出して、夕方になつて、自分は床の上に寝てゐながら、ワシリに島の地理を話し、逃げ出す時、どの道を逃げなくてはなるまいといふやうな事を言つた。
 ヅエエの港は樺太島の西岸にあるから、アジア大陸に向つてゐるのである。こゝの海峡は三百ヱルストの幅である。小船ではとても渡られない。だから逃げようと思ふものは、大抵外の場所から逃げる。
 只逃げるだけの事は余りむづかしくはないらしい。ブランはかういふのである、「死ぬる覚悟でさへあるなら、どこへでも行かれるよ。島は広くて、野と山とがあるばかりだ。土人だつて、どこでも勝手な所に住まふといふ事は出来ない。右の方へ行くと、岩ばつかりある中へ迷ひ込んで、森から出て来る飢ゑた獣に食はれるか、さうでなければ、諦めて戻つて来る様になる。南の方へ行くと、島の果だから、海に出る。その方からは大船でなくては渡られない。それだから逃げる道は只一方しかない。北の方だな。どこまでも海岸に沿うて北へ行くのだ。海さへ見て行けば間違ひはない。彼此三百ヱルストも行くと港がある。そこは大陸までの海の幅が狭いから、ボオトで渡る事が出来るのだ。」
 こんな話をした跡で、ブランはいつもの結論を下す事になつてゐる。「ところが、己が言つて置くがな、そこからだつて逃げるのは容易な事ではない。兵隊が警戒線を布《し》いてゐるからな。最初に越さなくてはならない線はワルキといふのだ。しまひから二番目がパンギといふのだ。一番しまひのがポギバといふのだ。大方逃げる奴の亡びてしまふ所だから、そんな名が付いてゐるのだらう。(ロシア語のポギバは滅亡の義。)一体警戒線は上手に布いてあるよ。道が出し抜けに曲る所で、その曲つた角に番兵がゐる。なんの事はない、ぼんやりして歩いてゐる内に、綺麗に網に掛かつてしまふのだ。桑原々々だ。」
「だつてお前二度も遣つた覚えがあるのだから、今度はそこの場所が分かりさうな者だな。」
 老人の目は赫くのである。「それは遣つたとも。だから己のいふ事を聞いてゐて、旨く遣らなくては行けない。今に水車場の普請に己達を連れ出さうとするだらう。その時同志の者が皆望んで出掛ける
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