上へ倒して鞭で打つ。併し大抵は打ち殺してしまふから、名目《みやうもく》は減刑でも、実際は一思ひに銃殺せられるより苦しいのである。
陰気な生活と運命の圧迫とに疲れて、沢《つや》の無くなつた老人の目は、どんよりして、何がどうなつても構はないといふ風に空《くう》を見てゐる。老人は物を言つてしまふと、隅の方に引つ込んで坐つた。
囚人の大勢集まつてゐる所では、直覚的に法律に精通してゐるものがある。さういふ男が或る事件に就いて、しつかり考へた上で、刑の予言をすると、大抵|中《あた》るに極まつてゐる。この場合では、誰でも老人ブランの言つた事を、腹の中で成程と思はないものはなかつた。
そこで一同ワシリの脱獄を幇助して遣る事に決議した。ワシリは「仲間」の為めに危険を冒したのであるから、仲間がその脱獄を幇助せずにゐるわけには行かない。
第一の準備として、囚人一同は毎日受け取る食料のパンを、少しづゝ除《の》けて置いて、それを集めてワシリの携帯糧食にする事にした。
それから一しよに脱獄する人を選抜するといふ事になつた。老人ブランはこれまで二度樺太から脱獄した経験がある。それだから第一に選抜せられた。
老人は別段に思案する様子もなく承諾して、かう云つた。「己はどうせ前から森の中で、のたれ死をする事に極まつてゐるのだらう。それが好からうよ。只一つ言つて置くがな、己も昔のやうには手足が利かないて。」老人は語り続けた。「精出して仲間を拵へろ。二人や三人では駄目だぞ。あそこを脱けるのは容易な事ではない。どんなに倹約しても、十人の手は揃つてゐなくては駄目だ。己も足腰の立つ間は、一しよに働いて遣る。実は己だつてどこで死んでも、あの土地で死ぬよりは好いからな。」
かう云つてしまつて、老人はひどく真面目に考へ込んだ。その皺の寄つた頬を伝つて、涙が流れてゐる。
ワシリは「爺いさん、気が弱くなつたな」と思つて、仲間を勧誘しに掛かつた。
軍艦は或る岬を曲つたと思ふと、港に近づいた。
船腹の窓には囚人が群をなして外を覗いてゐる。その興奮した、物珍らしげな目に、高い山のやうになつてゐる島の岸が、次第に暮れ掛かる靄の中に、段々はつきりと見えて来る。
夜《よ》に入つてから軍艦は港に這入つた。この辺の海岸は、黒い、陰気な大岩から成立つてゐる。船が留まると、直ぐに番兵が整列して、囚人の陸揚げに着手した。
真《ま》つ昏《くら》になつた港の所々に微かな火が点《とぼ》してある。波は砂に打ち寄せてゐる。空には重くろしい雲が一ぱい掛かつてゐる。誰も誰も沈鬱な、圧迫せられるやうな思をしてゐる。
老人ブランが小声で云つた。「これがヅエエといふ港だ、当分はこゝの監獄に置かれるのだ。」
土地の官憲が立ち会つた上で、点呼が始まつた。一組の点呼が済むと、上陸させられる。数箇月の間船に押し込まれてゐた囚人が、久し振りに陸地を踏むのである。今まで彼等を載せて、波に揺らせてゐた船は白い煙りを吐いてゐる。その煙りが夕闇の中で際立つて見えてゐる。
目の前に明りが見える。人の声がする。
「囚徒か。」
「はあ。」
「こつちだ。七号舎に這入るのだ。」
囚人の群はその明りに近づいて行く。列を正して行くのではない。ぞろぞろと不規則な群をなして、押して行くのである。随分ごたごたするのに、いつものやうに、脇から銃床《じうしやう》でこづかれないのを、囚人等は不思議なやうに感じた。
囚人の一人が呆れた様子で囁いた。「どうだい。番兵も何も附いてゐないぢやないか。」
これを聞いたブランが小言らしくつぶやいた。「黙つてゐろ。なんでこゝに番兵なぞがいるものか。番兵が無くつたつて、誰も逃げはしない。島は広いが、荒地ばかりだ。どこへ行つても飢ゑ死にをするより外ない。島より外は海だ。それ、音も聞えるだらう。」
かう云つた時、丁度風が出て、一行の前に見えてゐる明りがちらついて、それと同時に岸の方から海の音が聞えて来た。丁度猛獣が目を醒してうなるやうに。
ブランがワシリに言つた。「あの音が聞えるかい。国の諺に、八方水で取り巻かれた、これが不運だといふのである。この土地はどうしても海を渡らなくては逃げられない。それから船に乗る所まで逃げるにも道程《みちのり》が可なりある。牧場《まきば》や、森や、警戒線を通らなくては行かれない。己は動悸がする。あの海の音が不幸を予言してゐるやうでならない。どうも己にこの樺太が逃げられれば好いが。己も年が寄つたでな。もうこれまで二度脱けた。一度はブラゴヱシユチエンスクで掴まつた。二度目はロシアまで帰つて掴まつた。そして又こゝへ戻つて来た。どうもこの儘こゝで死ぬる事になりさうでならない。」
「さう云つたものでもないよ」と、ワシリが励ました。
「お前はまだ若い。もう己のやうに年を取つて、体
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