上官が如何に声を荒らげて呼んでも起きて来ない。とうとう格子を開けて這入つて、頭から被つてゐる外套を剥いで見ると、この三人はもう永遠に人の呼声に答へる事が出来なくなつてゐたのである。
囚人の仲間には勢力のある枢要人物がゐて重大事件を決行する。その外の人間は、個人としては全く資格を失つてしまつて、只或る「群」としてのみ生活してゐるのである。この群の為めには昨夜のやうな出来事は不意の事である。予期しない事である。そんな事件が起つた時は、一同顔を蹙《しか》めて黙つてゐる。只波の音と、機関の音とが聞えるばかりである。
併し決行せられた跡では、この事件の善後策として、どんな事をせられるだらうかといふ想像を、囚人共は話し合ふのである。
どうも上官等は三人の死んだのを偶然だとも認めず、急病の為めだとも認めないらしい。暴力を加へた痕跡がたしかに知れてゐたのである。そこで糾問が始まつた。併し囚人の返答は言ひ合せたやうである。
それが外の時であつたら、上官は脅迫とか、減刑の約束とかを餌にして、下手人を告発させる事が出来たかも知れない。併しこの場合には誰も口を開くものがない。それは仲間を庇ふ考へばかりではない。官憲といふものも、色々な威嚇を以て言はせようとするのだから、こはいには違ひない。併し「仲間」はそれより一層こはいのである。現に昨晩番兵を咫尺の間に置いて、仲間はその威力を示したのである。無論寐てゐなかつたものが多数ある。例の三人が毛布《けつと》の下でうめいた声が、普通の寐息と違ふ事に気の付いたものも多数あるに違ひない。併し誰一人昨夜の刑の執行者を告げるものはない。上官は為方《しかた》がないので、規則上の責任者に罪を帰した。それは組長とその助手とであつた。二人共その日の内に調べられた。
四
組長の助手はワシリであつた。その時は別の名を名告《なの》つてゐた。
二日程立つた。その間に囚人一同は例の事件を十分講究して見た。ざつとした考へで言つて見れば、事件はなんの痕跡をも留めてゐない。犯罪者の見付けられやうはない。随つて囚人仲間の規則上の代表者が軽い懲罰を受けて済む筈である。囚人等は、なんと問はれても、皆言ひ合せたやうな返事をした。「寐てゐました」と云つたのである。
然るに細密に考へて見ると、ワシリの身の上にどうも嫌疑が掛かりさうである。大抵仲間が重大な事件を実行する時は、組長や助手が迷惑をしないやうに十分注意して実行する。今度だつてワシリが犯罪人でないといふ事は、一応明瞭に証拠立てる事が出来るやうにしてある。併し老功と云はれる囚人で、これまで火水《ひみづ》の間を潜つて来た奴がこの事件ではワシリの安全を請け合ふ事を躊躇して、頭を振つてゐる。
大ぶ年を取つて、白髪頭になつてゐる流浪人が群を放れて、ワシリの前へ来て云つた。「おい。樺太へ着いたらな、お前|脱《ぬ》ける支度をしなくては行けないぜ。どうもまづくなつてゐるぞ。」
「どうして。」
「どうしても何もあるものか。お前一体なん犯かい。」
「再犯だ。」
「それ見ろ。それからいつか死んだフエヂカは誰の名を言つて置いて死んだと思ふ。お前の名だぞ。あいつのお蔭でお前は二三週間手錠を卸されてゐたぢやないか。」
「それはさうだ。」
「それ見ろ。あの時お前、あいつになんと云つた。兵隊が側で聞いてゐたぞ。お前はなんと想つてゐるか知らないが、どうしてもあれは脅迫と聞えたからなあ。」
ワシリも外の者も、かう云はれて見れば、どうも多少根拠のある話だと思はずにはゐられない。
「そこで好く考へて見てな、銃殺をせられる覚悟をしてゐなくては行けないぜ。」
大勢の間に不平らしく何かつぶやく声がした。
一人の男が不機嫌な声をして云つた。「よせ。ブラン。」
「なに。余計な世話だ。」
「お前|老耄《おいぼ》れたのだ。銃殺だなんて。その位の事で。お前どうかしてゐるのだ。」
老人は、何をいふのだといふやうな風で、唾をした。そしてかう云つた。「己はどうもしてゐはしない。お前達がなんにも分からないのだ。馬鹿共。お前達はロシアでどうなるといふ事を知つてゐるだけだ。己はこの土地でどうなるといふ事を知つてゐる。こゝの流義を知つてゐる。そこで助手、お前に言つて置くぞ。黒竜省の総督の前へお前の事件の書附が出ると、お前は銃殺せられるのだ。どうかしたら、一等軽くなつて、ボツクになるかも知れない。そいつは一層難有くない。どうせ寝かされてから、起き上がる事はないのだからな。考へて見ろ。こつちとらは軍艦にゐるのだ。こゝでは陸にゐるより倍厳しくせられるに極まつてゐる。こんな事は言ふやうなものゝ、己は実はどうでも好いのだ。お前方が皆揃つて銃殺せられたつて、己は何も驚きはしない。」老人がボツクと云つたのは、監獄にあるベンチの事である。その
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