を出すといふ風ですからね。」
「それは土地の慣《なら》はしだから為方がない。その貰ふ人も余所で泊れば、人に煙草を遣るのだからな。お前さんにだつて補助をして、今のやうに暮して行かれるやうにしてくれたぢやないか。」
「それはさうですね。」
「どうだね。気楽に暮してゐるかね。」かう云つて己はワシリの顔を見た。
ワシリは微笑んで、「さやう」と云つたが、跡は黙つて薪を炉にくべてゐる。煖炉の火が明るく顔を照すのを見ると、目がどんよりしてゐる。
暫くしてワシリが云つた。「まあ、わたくしの事を話し出しては際限がありません。これまで好い目に逢つた事もないが、今だつて好い目を見てはゐませんよ。十八位の時までは、少しは好かつたのです。詰まり両親の言ふ事を聞いてゐた間が、為合《しあは》せだつたのです。それをしなくなつた時、為合せといふものが無くなつたのです。それからといふものは、わたくしは、自分を死んだものゝやうに思つてゐます。」
かう云つた時、ワシリの顔は曇つて、下唇がぴくぴく引き吊つた。丁度子供のするやうな工合である。謂はばワシリは「両親の言ふ事を聞いた」子供に戻つたので、只その子供がいたづらに経歴して来た過去の生活の為めに、涙を流して泣いてゐるのである。
己に顔を見られたのに気が付いて、ワシリは気を取り直した様子で頭を振つた。
「こんな事を言つたつてしやうがありませんですね。それよりは、わたくしが樺太の牢を脱けた時のお話でもしませうか。」
己は喜んで聞く事にした。この流浪人の物語は夜の明けるまで尽きなかつた。
――――――――――――
千八百七十〇年の夏の夜の事である。汽船ニシユニ・ノフゴロド号が黒い煙を後へ引きながら日本海を航行してゐる。左の地平線には陸地の山が、狭い青い帯のやうに見えてゐる。右の方にはラ・ペルウズ海峡の波がどこまでも続いてゐる。汽船は樺太を差して進んでゐるのだが、島の岩の多い岸はまだ見えない。
甲板はひつそりしてゐる。只舳の所に、月の光を一ぱいに浴て、水先案内と当番の士官とが立つてゐるだけである。船腹の窓からは弱い明りが洩れて、凪いだ海の波に映じてゐる。
この船は囚人を樺太へ送る船である。さうでなくても、軍艦は紀律が厳しい。それがこんな任務を帯びて航海するとなると、一層厳しくしてある。昼間だけは甲板の上で、兵卒が取り巻いてゐる中を囚人が交る交る散歩させられる。その外は甲板に出る事は出来ない。
囚人のゐる室は、天井の低い、広い室である。昼間は並べて開けてある小さい窓から日が差し込む。薄暗いこの室の背景に透《すか》して見ると、窓は衣服に光る扣鈕《ボタン》が二列に付いてゐるやうに見える。遠いのは段々小さくなつて、その先は船壁の曲る所で見えなくなつてゐる。室の中央に廊下がある。廊下と、囚人のゐる棚との間には鉄の柱を立てて、鉄の格子が嵌めてある。そこに小銃を突いて、番兵が立つてゐる。夜になると薄暗いランプが、ちらちらと廊下を照らしてゐる。
総て囚人のする事は、番兵の目の前で格子の中でするのである。
熱帯の太陽が燬《や》くやうな光線を水面に射下してゐても好い。風が吠えて檣がきしめいて、波が船を揺つてゐても好い。この室に閉ぢ込められてゐる幾百人は、平気で天気の荒れるのを聞いてゐる。自分の頭の上や、この壁の外で、何事があらうと、この波に浮んでゐる牢屋が、どつちの方へ向いて行かうと、そんな事には構はない。
載せてある囚人の数は、それを護衛してゐる兵卒の数より多い。その代り囚人は一足歩くにも、ちよつと動くにも、厳重な取締を受けてゐる。かうして暴動などの起らないやうに用心してあるのである。
どんな非常な場合にも船を暴動者の手に取られてしまふ事のないやうに、思ひ掛けない程の用心がしてある。どんな危険にも屈せずに、格子の中の猛獣共が荒れ出して、格子から打ち込む弾丸も効力がなく、格子も破れてしまつたとしても、艦長の手にはまだ一大威力が保留してある。それは艦長が只簡短な号令を機関室へ下せば好いのである、「ワルヴを開けい。」
この号令が下ると、直ぐに機関室から囚人のゐる室へ熱蒸気が導かれる。丁度物の透間にゐる昆虫を殺すやうな工合である。囚人の暴動はこの手段で絶対的に防がれる事になつてゐる。
こんな厳重な圧制の下にゐても、囚人等は矢張り普通の人間らしい生活を営んでゐる。
今宵丁度汽船が闇の空へ花火《ひばな》を散らして、波を破つて進んで行き、廊下では番兵が小銃を杖に突いて転寝《うたゝね》をしてをり、例の薄暗いランプの火が絶え絶えに廊下から差し込んでゐる時、その格子の奥では沈黙の内に一悲劇があつた。それは囚人仲間で密告者を処分したのである。
翌朝点呼になつて見ると、囚人の中に寝台《ねだい》から起きないものが三人あつた。
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