のだな。食物《くひもの》を持つて出ろといふから、お前方の堅パンを持ち出すのだ。水車場にはペトルツシヤアがゐる。若い仲間の一人だ。そこから旅に立つのだな。三日の間は、ゐなくなつたつて、誰も気は付かない。この土地では三日の中に点呼に出さへすれば、咎めない事になつてゐる。病気だと云へば、医者が為事を休ませてくれる。だが、病院は随分ひどい。それよりか働き過ぎて病気になつて、体が利かなくなつた時は、森の中に寝てゐるに限る。さうすれば空気が好いからひとりでに直る。その時点呼に出て行くのだ。そこで四日目になつて点呼に出ないと逃亡と看做《みな》されるのだ。逃亡と看做されてから、遅くなつて帰つて来ると、直ぐにボツクへ載せてはたくのだ。」
「己達はボツクに乗る気遣はない。逃げた以上は帰つては来ないのだから」と、ワシリが云つた。
 ブランは又不機嫌になつて、目の色をどろんとさせて云つた。「帰つて来なければ、森の中の獣が引き裂くか、兵隊が鉄砲で打ち殺すのだ。兵隊は己達をなんとも思つてはゐない。捉まへて面倒を見て、百ヱルストも送つて来るやうな事はしない。見付けたところで打ち殺してしまへば、手数が掛からなくて好いのだ。」
「縁起の悪い事をいふな。不吉な事を知らせる烏の啼声を聞くやうだ。いよ/\あした出掛けるぞ。己達の入用な物は何々だと、お前ボブロフにさう言つてくれ。同じ船で来た仲間が取り纏めてくれるから。」
 老人は何やら口小言を言ひながら、俯向いて立つて行つた。その跡でワシリは同志にあすの用意を言つて聞かせた。組長の助手の役は、余程前に辞退したので、代りが選挙せられて、それが跡を務めてゐるのである。
 同志は手荷物の用意をした。着物や靴の痛んでゐるものは、跡へ残る人に取替へて貰つた。さうして置いて、水車場の普請に行けと云はれた時、同志者は揃つて名告《なの》り出た。
 その日の中に逃亡組は、水車場を離れてしまつて、森の中に這入つた。さて同志の頭数を調べて見ると、ブランがゐない。
 同志は随分粒が揃つてゐる。ワシリと一しよに出て来たヲロヂカは矢張流浪人だが、ワシリと仲の好い友達である。マカロフといふ大男がゐる。これは大胆で、機敏で、これまで鉱山から二度逃げ出した事がある。それからチエルケス人が二人ゐる。思ひ切つた事をする連中だが、仲間に対しては義理が堅い。それから韃靼人《だつたんじん》が一人ゐる。狡猾で、随分裏切りも為兼《しか》ねない男だが、その狡猾なところを利用すれば、有用な人物にもなりさうである。その外のものも、皆流浪人で、これまでシベリア中を股に掛けて歩いた連中である。
 一日森の中で暮して、その晩も泊つた。翌日まだブランを待つてゐる。それでもブランは来ない。
 第七号舎へ韃靼人を覗きに遣つた。韃靼人はこつそり忍んで行つて、ボブロフを呼び出した。これはワシリの親友で、囚人仲間一同から尊敬せられてゐる有力者である。
 翌朝ボブロフが森の中へ尋ねて来た。「どうだい。何か己がして遣らなくてはならない用があるのかい。」
「外ではないが、どうぞあのブランに来るやうに言つてくれ。あれが一しよに来なくては、出掛けられないのだ。もしまだ糧食が足りないといふなら、少し分けて遣つてくれ。己達はあの爺いさんの来るのを待つてゐるのだからな。」
 この話を聞いてから、ボブロフは第七号舎に帰つて見た。併しブランはまだなんの用意もしてゐない。只あちこち歩き廻つて、空《くう》を見て独語を言つてゐるのである。
 ボブロフが声を掛けた。「おい。ブラン。何をぐづ/\してゐるのだい。」
「なんだ。」
「なんだもないものだ。なぜ用意をしないのだ。」
「己かい。己は墓に這入る用意をしてゐる。」
 ボブロフは少しじれて来た。「それはなんといふ言草だ。お前の同志のものが、もう四日も森の中にゐて、お前の来るのを待つてゐるぢやないか。お前が行かないので、あいつらが戻つて来ようものなら、ボツクの上で叩き殺されてしまふだらう。お前は流浪人になつて、年を取つてゐながら、義理を知らないのか。」
 ブランは涙を飜《こぼ》してゐる。「さうさな。もう己はおしまひだ。どうせ己は島から外へ出る事は出来ない。己は年が寄つた。もう生きてゐる事は出来ない。」
「年が寄らうが寄るまいが、それはお前の事だ。一しよに逃げ出して、途中で死んだつて、誰もお前を悪くいふものはない。ところがあの十一人の人間が、お前のお蔭で、ボツクの上で死んだ日には、どうもお前をその儘では置かれないぜ。為方がないから、己は仲間に言つて聞かせる。さうしたらどうなるかといふ事は、お前だつて知つてゐるだらう。」
 ブランは真面目で答へた。「成程、それは知つてゐる。さうなつたつて、誰を恨みやうもない。己もそんなはめになつて死にたくはない。どうも行かなくてはなるまい
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