男が、老人らしい声でかう云ひました。「おい。子供達。お前方の内に一人位サマロフを知つてゐる奴があるだらう。」
隣にゐたダルジンが肱でわたくしをつゝきました。「本当らしいぞ。監獄長のサマロフさんだ。」かう云つて置いて、大きな声を出して、「旦那、若しダルジンを覚えてお出なさいますか」と云ひました。
「ダルジンを知らんでなるものか。己の監獄で組長をしてゐたぢやないか。フエドトといつたつけな。」
「さやうでございます。さあ/\、みんな出て来い。難有い旦那がお出になつた。」
この声を聞いて同志の者は皆出て来ました。
その時ダルジンがサマロフさんに言ひました。「旦那。あなたがわたくし共を掴まへにお出でなさらうとは、思ひも寄りませんでした。」
「馬鹿な奴だなあ。己はお前方があんまり気の毒だから、わざ/\出て来たのだ。町の直ぐ前で、火を焚くなんて、お前方は気でも違ひはしないか。」
「雨で濡れたものですから。」
「なんだ。雨で濡れたと、それでお前方は流浪人だといふのかい。大方雨に濡れたら、砂糖のやうに解《と》けてしまふだらう。併し運の好い奴等だ。裁判所長の見付けない内に、己が煙草を喫《の》みに内の石段の上に出て来たから、助かつたのだ。若し裁判所長があの火を見付けようものなら、それはお前方を着物の好く乾くやうな所へ入れて遣る所だつた。やれ/\。お前方はサルタノフの首を斬つたといふ事だが、余り智慧は無いと見えるな。早く火を綺麗に消して、河の側を離れて、谷の深い所へもぐつてしまへ。あの奥の方なら、十個処へ火を焚いても、どこからも見えはしない。」
こんな風に口汚なく言はれながら、わたくし共は爺いさんを取り巻いて立つてゐて、皆揃つて笑つてゐました。
爺いさんは小言を言ひ止めて、かう云ひました。「己はそこのボオトの中に、パンや茶を入れて来た。どうぞこれから先も、サマロフの事を悪く思はないでくれ。若しお前方が旨くこの土地を逃げおほせて、誰か一人トボルスクへ行つたものがあつたら、あそこの寺に、己の守本尊があるから、蝋燭を一本上げてくれ、己は女房の持つて来た地面と家とがこの土地にあるから、多分こゝで死ぬるだらう。それに大ぶもう年を取つてゐる。それでも故郷の事は折々思ひ出すよ。さあ/\、これで好い。もうお別れにしよう。ところでまだ一つお前方に言つて置く事がある。そろ/\お前方は別れ/\になるが
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