》が何やら聞き付けました。一体韃靼人といふ奴は、耳の聡《さと》い人間です。そこでわたくしも気を付けて聞いて見ました。どうも耳に漕いで来る※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》の音が聞えるやうです。そこでわたくしが河の方へ出て見ると、果してボオトが一艘こつそり近寄つて来ます。舵を取つてゐるのは帽子に前章《ぜんしやう》の附いてゐる男です。
 わたくしはみんなに声を掛けました。「おい。駄目だぜ。裁判所長が遣つて来た。」
 一同踊り上がつて、鍋を引つ繰り返して、森の中へ逃げ込みます。
 わたくしはこの時、ちらばらになるなと一同を戒めて、先づ様子を見てゐる事にしました。遣つて来る人間の頭数が少なければ、こつちが固まつて掛かれば、まだ勝てるかも知れないと思つたのです。
 そこでわたくし共は木の背後《うしろ》に隠れて待ち受けてゐました。
 ボオトは岸に着きました。陸に上がつて来るのは五人です。その内の一人が笑つてかう云ひます。「馬鹿な奴だ。皆逃げ出したのか。己が今一言言つたら、直ぐにみんな出て来るだらう。一体お前方は大胆な筈だが、逃げる事も兎より上手だなあ。」
 わたくしの隣には、一本の木の幹を楯に取つて、ダルジンがゐて、それがかう云ひました。「おい。ワシリ。なんだかあの裁判所長の声は聞き覚えがあるやうだな。」
「しつ。待て待て。人数が少いぜ。」
 かう云つてゐる内に、船から来た連中の一人が前へ出てかう言ふのです。「おい、こはがるには及ばない。お前方だつて、この土地の監獄で、知つてゐる役人が一人位あるだらう。」
 わたくし共は黙つてゐました。
 その男が又かう云ひました。「なぜ返事をしないのだ。この土地の役人で、お前方が名を知つてゐるのがあるなら云つて見ろ。さうしたら、己達の事が分かるかも知れないから。」
 わたくしが云ひました。「知つてゐても知らなくても、そんな事はどうでも好いが、己達の為めばかりではない。お前方もこゝで出つ食はしたのは不運だ。己達は息のある間は降参はしないぞ。」
 わたくしはかう云つて置いて、同志の者に用意をしろといふ相図をしました。相手は五人で、こつちは十一人だ。どうぞ銃を打たないでくれゝば好いが、銃の音がし出しては、町で聞き附けずにはゐないだらう。兎も角ももう駄目かも知れない。併し素直には押へられたくないものだと思つてゐました。
 その時さつきの
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