。賄賂といふものを取つた事がない。自分の利益の為めに公共の物を利用した事がない。只公共団体が報酬として送る物を受けるだけです。随分家族が多いから、それだけの物を受けなくてはならなかつたのです。
わたくし共がヂツクマン谷で野宿をした時、この人はもう役を引いて、市中の自宅に住まつてゐました。それでも昔からの癖で、囚人や監視中の人間を世話をしてゐました。
丁度その晩サマロフさんは、自分の家の石段の上に出て、煙草を喫んでゐますと、わたくし共のヂツクマン谷で焚いてゐる火が見えたのです。それを見てお爺いさんが「あそこで火を焚いてゐるのは何者だらう」と思つたのですね。
その時石段の下を監視中の男が二人通つたので、爺いさんは、それを呼び留めました。「お前方はこの頃どこで漁をしてゐるのだい。ヂツクマン谷ではあるまいね。」
「いゝえ。あそこでは遣つてゐません。あの谷より上手です。それにけふは帰つてしまふ筈でした。」
「己もさう思つてゐたのだ。それにあそこに見えてゐる焚火はどうだい。」
「へえ。」
「何者が焚いてゐるのだらう。お前方はどう思ふ。」
「知りませんね。旅人《りよじん》かなんかでせう。」
「さうさ。旅人なら好いが。一体お前方は親切気がない。己にばかり心配をさせて、平気でゐる。お前達も知つてゐる筈だが、あの樺太から牢を脱けて出たものゝ事を、おとつひ裁判長が云つてゐたぢやないか。誰やらが近い所で見掛けたといふ事だつた。あの火を焚いてゐるのは、大方そいつだらう。あんまり気の好い話だ。」
「さうかも知れません。」
「もしさうだつたら、あの遣つてゐる事を見てくれ。己は好く知らないが、裁判所長はもう町へ帰つてゐるか知らん。まだ帰つてゐないにしても、もうそろ/\帰る頃だ。あの火を見付けようものなら、直ぐに兵隊を差し向けるのだ。可哀《かはい》さうだなあ。サルタノフを殺したのだから、掴まへられると、首がない。おい。早くボオトを一つ出して貰はう。」
わたくし共は火を取り囲んで、汁の煮えるのを待つてゐました。もう大ぶ久しく、暖かいものを口に入れた事がないのです。その晩は闇で海の方から雲が出て、小雨が降つてゐます。森の中はざわ/\云つて、わたくし共の話声を打ち消してゐます。かういふ闇の夜が、わたくし共流浪人の為めには嬉しいのです。空は暗いほど胸が明るくなるのです。
突然|韃靼人《だつたんじん
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