ぞを見※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《みのが》してなるものかと、不断言つてゐるさうだ。あの辺を旨く通り抜ける事が出来たら、運が好かつたのだと思ひなさい。市中なんぞへ鼻を突つ込んではなりませんよ。」
留守番は主人の云ひ付けた通りの金や品物を出して、それに自分の手から二十銭づつ出して添へてくれました。それから肴をくれました。そして十字を切つて、自分の部屋へ引つ込んで戸を締めてしまひました。その内一度|点《つ》けた明りを消した様子で、構内《かまへうち》は又ひつそりと寝鎮《ねしづ》まりました。まだ夜の明け切るには間があつたのです。わたくし共は、そこを出掛けましたが、一同なんとなく物悲しいやうな心持がしてゐました。
一体流浪人の心の内には、折々深い悲哀が起るものです。闇の夜や、茂つた森が周囲《まはり》を包む。雨が濡れ通る。それを風が吹いたり、日が当つたりして、又乾かす。広い世界にどこと云つて、自分の安心して休む所はない。故郷の事は始終恋しく思つてゐるが、さて色々な難儀をしたり危険を冒したりして、そこへ帰つて見れば、犬でさへ直ぐに流浪人だといふ事を見て取るのです。それにお役所は厳しい。やつと故郷へ帰つたと思ふと、又牢屋に入れられてしまふのですね。
それでもどうかするとその牢屋の中が、今ゐる所に比べれば、却て天国のやうだと思ふ事があります。タルハノフの家を出て、夜道を歩いた時なんぞが、丁度さういふ場合でした。
わたくし共は皆黙つて歩いてゐました。その時、ヲロヂカがふいとかう云ひました。「どうだい。今時分仲間はどうしてゐるだらう。」
「仲間とは誰の事だい。」
「あの樺太の第七号舎に残して置いた仲間さ。あいつらは今時分安心して寝てゐるだらう。それにこつちとらは、こんなに迷ひ歩くのだ。逃げなければ好かつたになあ。」
あんまり下らない事を言ふと思つて、わたくしはヲロヂカを叱つて遣りました。「そんな婆あさんか何かのいふやうな事を言つて恥かしくはないかい。お前そんなに意気地がなくて、外の人をまで臆病仲間に引き入れさうにするなら、己達と一しよに出て来なければ好かつたのだ。」
かうは云つたものゝ、わたくしも気は引き立ちませんでした。一同疲れ切つてゐます。半分眠りながら歩いてゐるのです。流浪人になると、眠りながら歩く事を覚えます。不思議な事には、こんな時にちよい
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