とでも眠ると、直ぐに牢屋にゐる夢を見るものです。月が差し込んで、壁を薄白く照らしてゐると、格子窓の奥の寝台《ねだい》の上に、囚人が寝てゐるのが見える。その内自分もその囚人の一人のやうに思つて、寝台の上で伸びをする。それで夢が醒めるのです。
そんな夢ならまだ好いが、夢の中で親父や母親に出て来られては溜まりません。そんな時はわたくしの身の上には、まだ何事もなく、牢に這入つた事もなく、樺太に行つた事もなく、警戒線の兵隊と戦つた事もないのです。わたくしは親の家にゐて、母が髪を撫で付けてくれてゐます。卓の上にはランプが点いてゐる。親父は鼻の上に目金を引つ掛けて、難有さうな本を読んでゐます。わたくしの親父は、人に本を読んで聞かせる男でした。母が小歌を歌ひ出します。
こんな夢を見て目の醒めた時は溜まりません。なんだか胸に小刀が刺してあるやうな気がします。そんなしんみりした、気楽な部屋の中から、突然真つ暗な森の中へ出たやうに思ふのですからね。
真つ先をマカロフが歩いてゐます。その跡へ一同続いて、丁度村の子供の跡に付いて、鶩《あひる》が行列をして行くやうに、一人一人跡先に並んで行くのですね。折々風が吹いて来て、森の木の葉が囁くやうな音を立てゝ、直ぐに又ひつそりします。遠い所に、木の葉の間から海が見えます。その上には空が広がつてゐます。その空のずつと先の地平線の所が、ぼんやり赤くなつてゐる。今少しすると日が出るといふ印ですね。海の見えるやうな所では、波の音が聞え止む事はありません。どこかの余所の国の歌を歌ふやうな時もあり、又腹を立てゝどなつてゐるやうな時もあります。海の歌を歌ふ声は、よく夢にも聞えます。流浪人は海を見ると、胸に係恋《あこがれ》を覚えます。大抵海には縁の遠い世渡をしてゐますからね。
わたくし共は段々ニコラエウスクに近づいて来ました。次第に人家や部落が多くなります。随つて次第に危険になつて来るのです。わたくし共は用心してそろ/\町の方へ忍び寄ります。夜になると歩いて、昼間は、人間どころではない、獣もゐないやうな森の茂みに隠れてゐるのです。
一体わたくし共はずつと大きい輪をかいて、ニコラエウスクの側へ寄らないやうにする積りでした。ところが体が疲れてゐて、遠道が歩きたくないのと、食料が段々乏しくなつたのとで、どうもさうしてはゐられなくなつたのです。
或る日の夕方河の
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