花子
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)Auguste《オオギュスト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|外《ほか》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)Mademoiselle《マドモアセユ》[#ルビの「マドモアセユ」は底本では「マドモアセエ」]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Ho^tel〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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Auguste《オオギュスト》 Rodin《ロダン》 は為事場《しごとば》へ出て来た。
広い間《ま》一ぱいに朝日が差し込んでいる。この 〔Ho^tel〕《オテル》 Biron《ビロン》 というのは、もと或る富豪の作った、贅沢《ぜいたく》な建物であるが、ついこの間《あいだ》まで聖心派の尼寺になっていた。Faubourg《フォオブウル》 Saint《サン》−|Germain《ジェルメン》 の娘子供を集めて 〔Sacre`〕《サクレエ》−|Coeur《キョオル》 の尼達が、この間《ま》で讃美歌を歌わせていたのであろう。
巣の内の雛《ひな》が親鳥の来るのを見つけたように、一列に并《なら》んだ娘達が桃色の脣《くちびる》を開いて歌ったことであろう。
その賑《にぎ》やかな声は今は聞えない。
しかしそれと違った賑やかさがこの間を領している。或る別様の生活がこの間を領している。それは声の無い生活である。声は無いが、強烈な、錬稠《れんちゅう》せられた、顫動《せんどう》している、別様の生活である。
幾つかの台の上に、幾つかの礬土《ばんど》の塊《かたまり》がある。又|外《ほか》の台の上にはごつごつした大理石の塊もある。日光の下に種々の植物が華さくように、同時に幾つかの為事《しごと》を始めて、かわるがわる気の向いたのに手を着ける習慣になっているので、幾つかの作品が後《おく》れたり先だったりして、この人の手の下に、自然のように生長して行くのである。この人は恐るべき形の記憶を有している。その作品は手を動さない間にも生長しているのである。この人は恐るべき意志の集中力を有している。為事に掛かった刹那《せつな》に、もう数時間前から為事をし続けているような態度になることが出来るのである。
ロダンは晴やかな顔つきをして、このあまたの半成の作品を見渡した。広々とした額。中《なか》ほどに節のあるような鼻。白いたっぷりある髯《ひげ》が腮《あご》の周囲に簇《むら》がっている。
戸をこつこつ叩《たた》く音がする。
「Entrez《アントレエ》 !」
底に力の籠《こも》った、老人らしくない声が広間の空気を波立たせた。
戸を開けて這入《はい》って来たのは、ユダヤ教徒かと思われるような、褐色《かっしょく》の髪の濃い、三十代の痩《や》せた男である。
お約束の Mademoiselle《マドモアセユ》[#ルビの「マドモアセユ」は底本では「マドモアセエ」] Hanako《ハナコ》 を連れて来たと云った。
ロダンは這入って来た男を見た時も、その詞《ことば》を聞いた時も、別に顔色をも動かさなかった。
いつか Kambodscha《カンボヂヤ》 の酋長がパリに滞在していた頃、それが連れて来ていた踊子を見て、繊《ほそ》く長い手足の、しなやかな運動に、人を迷わせるような、一種の趣のあるのを感じたことがある。その時急いで取った dessins《デッサン》 が今も残っているのである。そういう風に、どの人種にも美しいところがある。それを見つける人の目次第で美しいところがあると信じているロダンは、この間から花子という日本の女が 〔varie'te'〕《ワリエテエ》 に出ているということを聞いて、それを連れて来て見せてくれるように、伝《つて》を求めて、花子を買って出している男に頼んでおいたのである。
今来たのはその興行師である。〔Impre'sario〕《アンプレサリオ》 である。
「こっちへ這入らせて下さい」とロダンはいった。椅子をも指《さ》さないのは、その暇《いとま》がないからばかりではない。
「通訳をする人が一しょに来ていますが。」機嫌《きげん》を伺《うかが》うように云うのである。
「それは誰ですか。フランス人ですか。」
「いいえ。日本人です。L'Institut《ランスチチュウ》 Pasteur《パストョオル》 で為事をしている学生ですが、先生の所へ呼ばれたということを花子に聞いて、望んで通訳をしに来たのです。」
「よろしい。一しょに這入らせて下さい。」
興行師は承知して出て行った。
直ぐに男女の日本人が這入って来た。二人と
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