も際立《きわだ》って小さく見える。跡《あと》について這入って戸を締める興行師も、大きい男ではないのに、二人の日本人はその男の耳までしかないのである。
 ロダンの目は注意して物を視るとき、内眥《めがしら》に深く刻んだような皺が出来る。この時その皺が出来た。視線は学生から花子に移って、そこにしばらく留まっている。
 学生は挨拶《あいさつ》をして、ロダンの出した、腱《けん》の一本一本浮いている右の手を握った。La《ラ》 Danaide《ダナイイド》 や Le《ル》 Baiser《ベゼエ》 や Le《ル》 Penseur《パンショオル》 を作った手を握った。そして名刺入から、医学士久保田某と書いた名刺を出してわたした。
 ロダンは名刺を一寸《ちょっと》見て云った。「ランスチチュウ・パストョオルで為事をしているのですか。」
「そうです。」
「もう長くいますか。」
「三箇月になります。」
「Avez《アウェエ》−|vous《ヴウ》 bien《ビアン》 〔travaille'〕《トラワイェエ》 ?」
 学生ははっと思った。ロダンという人が口癖のように云う詞《ことば》だと、兼《かね》て噂《うわさ》に聞いていた、その簡単な詞が今自分に対して発せられたのである。
「Oui《ウイ》, beaucoup《ボウクウ》, Monsieur《モッシュウル》 !」と答えると同時に、久保田はこれから生涯勉強しようと、神明に誓ったような心持がしたのである。
 久保田は花子を紹介した。ロダンは花子の小さい、締まった体を、無恰好《ぶかっこう》に結った高島田の巓《いただき》から、白足袋に千代田草履を穿《は》いた足の尖《さき》まで、一目に領略するような見方をして、小さい巌畳《がんじょう》な手を握った。
 久保田の心は一種の羞恥《しゅうち》を覚えることを禁じ得なかった。日本の女としてロダンに紹介するには、も少し立派な女が欲しかったと思ったのである。
 そう思ったのも無理は無い。花子は別品《べっぴん》ではないのである。日本の女優だと云って、或時|忽然《こつぜん》ヨオロッパの都会に現れた。そんな女優が日本にいたかどうだか、日本人には知ったものはない。久保田も勿論《もちろん》知らないのである。しかもそれが別品でない。お三どんのようだと云っては、可哀そうであろう。格別荒い為事をしたことはないと見えて、手足なんぞは荒れていない。しかし十七の娘盛なのに、小間使としても少し受け取りにくい姿である。一言で評すれば、子守《こもり》あがり位にしか、値踏が出来兼ねるのである。
 意外にもロダンの顔には満足の色が見えている。健康で余り安逸を貪《むさぼ》ったことの無い花子の、いささかの脂肪をも貯えていない、薄い皮膚の底に、適度の労働によって好く発育した、緊張力のある筋肉が、額と腮《あご》の詰まった、短い顔、あらわに見えている頸《くび》、手袋をしない手と腕に躍動しているのが、ロダンには気に入ったのである。
 ロダンの差し伸べた手を、もう大分《だいぶ》ヨオロッパ慣れている花子は、愛相の好い微笑を顔に見せて握った。
 ロダンは二人に椅子を侑《すす》めた。そして興行師に、「少し応接所で待っていて下さい」と云った。
 興行師の出て行った跡で、二人は腰を掛けた。
 ロダンは久保田の前に烟草《たばこ》の箱を開けて出しながら、花子に、「マドモアセユの故郷には山がありますか、海がありますか」と云った。
 花子はこんな世渡《よわたり》をする女の常として、いつも人に問われるときに話す、きまった、〔ste're'otype〕《スシレオチイプ》 な身の上話がある。丁度《ちょうど》あの Zola《ゾラ》 の Lourdes《ルウルド》 で、汽車の中に乗り込んでいて、足の創《きず》の直った霊験を話す小娘の話のようなものである。度々同じ事を話すので、次第に修行が詰んで、routine《ルウチイヌ》 のある小説家の書く文章のようになっている。ロダンの不用意な問は幸《さいわい》にもこの腹藁《ふっこう》を破ってしまった。
「山は遠うございます。海はじきそばにございます。」
 答はロダンの気に入った。
「度々舟に乗りましたか。」
「乗りました。」
「自分で漕《こ》ぎましたか。」
「まだ小さかったから、自分で漕いだことはございません。父が漕ぎました。」
 ロダンの空想には画が浮かんだ。そしてしばらく黙っていた。ロダンは黙る人である。
 ロダンは何の過渡もなしに、久保田にこう云った。「マドモアセユはわたしの職業を知っているでしょう。着物を脱ぐでしょうか。」
 久保田はしばらく考えた。外の人のためになら、同国の女を裸体にする取次は無論しない。しかしロダンがためには厭《いと》わない。それは何も考えることを要せない。ただ花子がどう云うだろうかと思っ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング