しょにいる処を想像するのは、わたし共と一しょというわけではなくって、誰か外の人と一しょにいるような夢を見ているのではあるまいかね。
画家。(驚きたる様子。)姉さん達と一しょでなくって、誰と一しょにいる事が出来るでしょうか。
姉。それはお前はお前で因襲の外《ほか》の関係が出来るかも知れないじゃないか。
画家。(手にて拒む如き振《ふり》を為《な》し、暫く間《ま》を置き、温かに。)僕は幾らか姉さんの助《たすけ》になりたいと思うのです。
姉。(甚だ意外に思うらしき様子。)何んですって。わたしを助けるのですって。
画家。でも姉さんが、朝から晩までおっ母さんに付いていて世話をするのは、随分苦しいでしょう。長年の事だから。何んでも年寄というものは、どんなに世話をしても、それを難有《ありがた》いなんぞと思ってはくれないものです。それに病気ででもあると癇癪《かんしゃく》を起して無理な事もいうでしょう。随分つらかろうと、僕だって察していますよ。
姉。お前がそうお言いなら、わたしは打明けてお前に言いましょうがね。実はわたしがおっ母さんの世話をするのも、因襲の外《ほか》の関係なので、わたしは生涯をその関係に委《ゆだ》ねたというものかも知れませんよ。(画家不審らしき顔をなす。姉は沈みたる調子にて言い続く。)実はね。おっ母さんというものには、とうに別れてしまったかも知れないのですよ。そしてわたしはある縁のない人に出くわしたのね。その人が人手を借《か》らなくってはどうする事も出来ない、可哀相《かわいそう》な人だもんだから、わたしはその人に世話をしてやって、その人のためには、わたしがいなくなっては、どうもならないような工合になったのね。晩方《ばんかた》に窓掛を締めてやれば、その人のためには夜になり、午前《ひるまえ》に窓の鎧戸《よろいど》を明けてやれば、その人のためには朝になるでしょう。物を喰《た》べさせるのも、薬を飲ませるのもみんなわたしの手でするのでしょう。わたしの本を読んで聞かせる声に賺《すか》されて、寝る時は寝るでしょう。そういう風にその可哀相な人はわたしに便《たよ》るのだから、わたしはまたその人の助《たすけ》になるのを自分の為事にしているのです。それが今お前に言われて見れば、わたしのおっ母さんなのね。
画家。(姉の方《かた》へ手を差伸べて温かに。)ええ、それがお互のおっ母さんだというわけですね。
姉。(弟の手を握りて、互に目を見交す。○間。)こんな事をいってぐずぐずしていてはおっ母さんが待遠《まちどお》に思うでしょう。
画家。それではロイトホルド君には逢わないで帰るのですね。
姉。そう。あんまり遅くなるからね。(間。)あの人は度々お前の処へ来ますの。
画家。なにあんな風で、交際|好《ずき》というわけではないでしょう。それだからめったには来ないが、今日は誘いに寄るといっていたのです。
姉。マルリンクの一|家《け》とも附合《つきあ》っていると見えるね。
画家。そうさね。マルリンク男爵の友人というよりは、息子のロルフの友人といった方が好い位でしょう。時代が違って男爵とは話が合いそうもないのですから。
姉。そうでしょうとも。この頃のように人の思想が早く変ることはないのだから。
画家。実にそうです。勿論《もちろん》青年社会の思想というのは。(戸を叩く音す。)はてな。ロイトホルド君かも知れない。お這入んなさい。ああ。そうだった。
医学士ロイトホルド。(登場。痩《や》せて背の高き男。)もうそろそろ出掛けても好いでしょう。(ゾフィイを見て、暫くは近眼《きんがん》のために、誰とも見分かず、忽《たちま》ちそれと知りて。)いや。失礼しました。ご機嫌よろしゅう。
姉。(医学士に進み近付き握手せんとす。)暫らくでございましたね。只今弟と、あなたなんぞは旧思想の人だろうか、新思想の人だろうかと、お噂《うわさ》をいたしていたのでございます。
学士。(ゾフィイと握手す。次に画家と握手し、鼻眼鏡《はなめがね》を外しつつ。)どっちでもありませんよ。強いてどっちかに入れなければならないとなりますれば、旧思想の方へ入れてお貰い申しましょう。わたくしなんぞの考《かんがえ》では、一体新思想というものが、もう纏《まとま》って出来ているかどうだか、も少し待って見なくては分らないと思うのですから。
姉。へえ。なぜでございましょう。
学士。わたくしの考では、破壊せられた旧思想が、随即《やがて》新思想だとは認められないように思うのですよ。
画家。それでも君も旧思想が取片付けられてしまうということだけは認めているのですね。
姉。そしてそれを取片付けるのが当然だということも認めていらっしゃるのでしょう。
学士。そうなると、一度にはちっと問題が大き過ぎますね。事によったら骨を折って旧思想を破壊するのも徒労ではないかと思うのです。なぜというのに、折角旧思想を取片付けてしまっても、その跡の、石瓦《いしかわら》に覆われた地面の上には、新思想は芽ざして来ないかも知れませんから。新思想の生えて来るには、何処《どこ》か別に新しい地面が入《い》るのではないでしょうか。
姉。それではあなたは、この世界にまだどこか人の手の触れない新しい土地があるように思っていらっしゃいますの。
学士。ええ。もし人の手の触れない土地がもうないという段になれば、それは新しい土地が海の中から湧《わ》き出ても好いでしょう。
画家。君は詩人ですね。
学士。そうですね。詩人なら、君なんぞの読まない旧派詩人でしょう。
画家。いや。僕は新派も旧派も読みませんよ。妙な工合で、僕も誰かの句が気に入って覚えていることはあるのです。それがロオマンチックの詩人であったり、デカダンであったりするのです。仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリア》、独逸《ドイツ》、露西亜《ロシア》、どの国のものだか分らなくなることもあるのです。気に入った句は、どの詩人のでもみんな一人で作ったもののように、僕には思われるのです。
学士。そりゃあ、それも一理ありますよ。どの詩人の背後にも唯一の詩人がいるのでしょうから。
画家。ふん。神だというのですか。
学士。君はそれを神と名附けますか。
画家。(答に窮する様子。)僕には分りませんなあ。(間。)
学士。(時計を見る。)しかしもう時刻が。
画家。(目の覚めたる如く。)そうだそうだ。もう遅くなる。君、車が下に待たせてありますか。
学士。待たせてありますよ。
画家。それじゃあ、ちょっと腰を掛けて待っていて下さい。姉さん。ロイトホルド君にその紙巻の箱を上げて下さい。箱のある処は分っているでしょう。僕は直ぐ来ますから。(急ぎて寝間に入《い》る。)
姉。(凭掛りの椅子を示す。)どうぞお掛けなすって。お莨を上りますか。
学士。いえ。只今は頂戴《ちょうだい》いたしますまい。食事|前《ぜん》ですから。(ゾフィイは藁椅子を持ち来て腰を掛く。学士はその椅子を自分にて持ち来らんとして馳《は》せ寄る。)御免下さい。うっかりしていました。
姉。どう致しまして。わたくしはいつも自分の体の事は自分で致すのですから。(藁椅子に腰を掛く。学士は椅背《きはい》に寄りかからずに、背を真直《ますぐ》にして腰を掛く。○間。)あなたマルリンク家とお心易《こころやす》くしていらっしゃいますの。
学士。そうですね。古い知合という程度ですよ。年を取った男爵は、わたくしの医者としての職業上で、よほど前からわたくしと交際していられるのです。それから今度嫁に来られるお嫁さんのお里もわたくしは知っています。
姉。それでは御縁組のある両家ともお知合なのですね。それなのに儀式にはいらっしゃらなかったのですか。
学士。いや。わたくしは婚礼の席へ行くのは大嫌《だいきらい》です。
姉。気味の悪いようにお思いなさるのでしょうか。
学士。そうですね。何んだかこう角立《かどだ》って、大業《おおぎょう》に見せるのが不愉快なのです。
姉。それではあなたのお考《かんがえ》では、婚礼というものは、こっそりいたした方が宜しいのですね。
学士。ええ。なるべく目に立たないようにしたいものです。葬《とむらい》の方なら、少しは盛大にしたって好いのです。死人を嫉《ねた》むものはありませんから。
姉。それはそうでございますね。死人なら誰も嫉みは致しますまい。そういうお心持は分りますわ。
学士。どうお分りですか。
姉。あなたは生活がお好《すき》なのでしょう。
学士。(微笑む。)兎に角生活していますよ。
姉。それだけで沢山です。兎に角あなたは旧思想の方《かた》ではございませんのね。
学士。(微笑む。)それでは旧思想の人は生活していないと仰《おっし》ゃるのですか。
姉。(たゆたいつつ。)それは同じ生活しているといっても違いますわ。
画家。(外套《がいとう》を着、手に帽と手袋とを持ち登場。)さあ。行きましょう。
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(学士立つ。)
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姉。遅くなりはしなくって。
画家。なあに。四五分で行かれるのだから。
姉。(学士に。)そんなら、御機嫌宜しゅう。もっとお話が伺いたかったのですが、為様がございませんね。事によったらまたここで偶然お目にかかれるかも知れませんね。
学士。そんな偶然な事があっても、あなたは御迷惑ではございませんか。
姉。いいえ。どう致しまして。それに偶然というものもつまりは法則があって出来るのではございますまいか。
学士。それであなたは法則というものを尊《たっと》んでいらっしゃるのですね。
姉。ある法則には服従しますわ。言って見れば。
学士。言って見れば。
姉。言って見れば、友誼《ゆうぎ》の法則なぞがそれですね。(学士と握手せんとす。)
学士。(十分の敬意を以《もっ》て、ゾフィイの手に接吻《せっぷん》す。)今日《こんにち》は色々お話を承って為合《しあわ》せを致しました。
姉。それではそのうち。
学士。ええ。またお目にかかりましょう。
画家。まあ、兎に角梯子段の下までは一しょに行きましょう。さあ。(戸を開き、姉と学士とを出《いだ》しやり、自分も続いて退場。○舞台は一二分間空虚になりおる。さて外より戸を開け、先にモデル娘、続いてウェエベルの上《かみ》さん、箒《ほうき》、バケツ、雑巾《ぞうきん》を持ち、登場。)
モデル。(快活に。)さあお上さん。家番《やばん》のおじさんが鍵は持ってるだろうと思ったが、その通りでしたね。構わないからお這入りなさいよ。(手早く帽とジャケツとを脱ぎ捨て、大いなる白の前掛を取出《とりいだ》して掛く。)大急ぎでやらなくっちゃあ、駄目ですよ。まだ二時間は日があるでしょう。そのうちにあらまし片付けてしまわなくちゃならないからね。さあ。この煖炉の処から始めて下さいよ。
上さん。(のろのろと。)はい、はい、もう大分遅いからね。それに随分広い部屋だ。一体あしたの朝ゆっくりにした方が好かったのに。
モデル。(じれった気に。)そんな事をいうのではないよ。あすの朝は綺麗《きれい》になっていなくちゃならないのだから。
上さん。(襷《たすき》を掛く。)なるほどね。(掃除道具を運ぶ。)あしたは御祝儀でもあるのですかい。
モデル。(さっさと為事にかかり、卓《たく》の上を片付けつつ、にこやかに。)ええ、ええ。あしたはお目出たい日なのよ。
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第二場
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翌朝《よくちょう》。画家は楽気《らくげ》に凭掛《よりかかり》の椅子《いす》に掛り、莨《たばこ》を喫《の》み、珈琲《コオフィイ》を飲み、スケッチの手帳を繰拡《くりひろ》げ、見ている。戸を叩《たた》く音《おと》す。
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画家。お這入《はい》んなさい。
モデル。今日《こんち》は。
画家。マッシャか這入れよ。(モデル急がし気《げ》に入《い》る。画家はやはりスケッチの手帳を引繰返しつつ。)為事《しごと》は今日は駄目だよ。)
モデル。(驚きたる様子。)おや。
画家。(微笑《ほほえみ》。)
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