あるでしょう。
画家。直《すぐ》に始めようというのか。
モデル。造做《ぞうさ》はありませんわ。拭巾があるならお出しなさいよ。
画家。せっかちだなあ。(その内娘は左手の箪笥を開け探す。画家絵具入の抽斗《ひきだし》を抜き出《いだ》す。)ここだ、ここだ。(抽斗にある艶拭巾《つやぶきん》を二枚|出《いだ》して投げ遣《や》る。娘は直《すぐ》に箪笥を拭き始め、その上の品物を一々《いちいち》拭きて工合好く据直す。画家は紙巻を一本吸付け、窓を背にして、銅版の置きある机に寄りかかり、娘のする事を見ている。)
モデル。(一方の画架の処に膝《ひざ》を突き、掃除をしつつ徐《しずか》に。)今度おかきになるものには顔のがお入用《いりよう》なのではないでしょうか。顔の役に立つモデルが。
画家。なぜ。(莨を喫む。)
モデル。(立ちて左手の壁の額を掃除す。)わたしでは手と足しきゃお役に立たないのですもの。(画家は娘を見ている。娘は画家が返事をせざる故向き返り顔を見る。画家は突然紙巻を投げ捨て、画架に飛付く。)
画家。じっとしていろ。動いちゃあいけないぞ。(娘はその姿勢を崩さずにいる。画家は画室をあちこち駈《か》け廻《まわ》り枠なぞを倒し、紙の張りある板何枚かをひっくり返して、その一枚を画架に載せ、箪笥を引開け、チョオクの入れある箱を取出《とりいだ》し、大急ぎにてかき始む。為事に熱中しつつ。)それで好い。手はそのまま垂らしても好い。(フロックコオトの上着を脱いで床《ゆか》の上に投《ほう》り出《いだ》す。娘は姿勢を保ちいる。画家は為事を続く。)手はどうでも好いのだ。顔さえそうしていて貰えば好い。(娘は驚の余りに麻痺したる如《ごと》き様子にて両手を後《うしろ》に引く。画家は詞無く、為事を続く。娘、突然激しく感動したる様子にて両手にて顔を覆う。)おい。どうしたんだい。為様《しよう》がないなあ。もう駄目だ。(娘泣く。画家チョオクを投ぐ。)ええ、くそ。もう駄目だ。
モデル。(驚きたる様子。)御免なさいよ。わたしはつい。(両手を顔より放して元の姿勢に返る。)
画家。(憤然として。)そうしていさえすれば好かったのだ。なんだってあんな真似《まね》をしたのだい。
モデル。(ひどく間の悪気に。)本当に御免なさいよ。つい。
画家。そんな顔になっちゃあ為方はありゃしない。今日はもうおしまいだ。(娘は悲し気に立ちいる。)おしまいだというじゃあないか。(板を壁にがたりと寄せ掛く。さてチョッキのみになりたるに心付き、床《ゆか》の上にある上着を取上げ着る。娘、傍《そば》に寄る。)なんだ。
モデル。(間の悪気に。)お服が五味だらけになりましたわ。
画家。そんなら、掃いてくれい。(娘、ブラシを探す。画家|卓《たく》を指ざす。)あそこにある。(娘、ブラシを持ち来て服を掃く。間。○戸を叩く音す。画家|高声《たかごえ》に。)お這入んなさい。
画家の姉。(戸を少し開けて透間より。)好いの。
画家。姉《ねえ》さんですか。
姉。ええ。わたしよ。
画家。お這入んなさい、お這入んなさい。(モデル娘は服を掃く手を止《とど》め、気を置くように戸の方《かた》を見る。○ゾフィイは老けたる処女なり。質素なる拵えにて登場。髪は真中《まんなか》より右左に分けいる。容貌《ようぼう》美ならず。されど柔和にて目付|賢気《かしこげ》に情《なさけ》あり。万事察しの好き風なり。後《うしろ》の戸を締め、モデルを見てたゆたう。)好いからずっとこっちへおいでなさいよ。これがマッシャなのです。そら。好く姉さんに話したでしょう。今服の五味を取って貰っていた処です。今日はマルリンクの処へ午餐《ごさん》に呼ばれましたので。
姉。(進み入る。)ちょいちょい覗《のぞ》いて見ようと思うのだけれど、つい御無沙汰《ごぶさた》になってね。(モデル娘に。)今日《こんち》は。(握手せんとす。娘は意外に思うらしく慌ててそっと手を出《いだ》し、一秒間程相手の手を握る。貴夫人の己《おの》れと握手する事はあり得《う》べからざるように思いおるゆえ驚きしなり。さて、艶拭巾を取りて、絵具箪笥の抽斗の、まだ開けある中にしまい、忙がわしく上着を着る。)どこへ呼ばれているのですって。
画家。(手真似にて姉に、寝椅子を指さし示し、自分も藁の椅子を傍《そば》に持ち行《ゆ》き、腰を掛く。)マルリンクの処なのです。
姉。(寝椅子に腰を掛く。)あそこの内では今日よめさんが来るのだというではありませんか。
画家。(半ば見物《けんぶつ》に背を向けて藁椅子に腰を掛く。)それなのです。儀式には厭だから行かないが、午餐だけは断るわけにも行かないものですからね。息子は近頃随分親しくしているのですから、断ると感情を害しますからね。それに午餐といっても極近い親類や友達《ともだち》の外は呼んでないのだそうです。それで燕尾服《えんびふく》にも及ばないといって来た位です。姉さんは近頃どうしているのですか。みんな健康ですか。おっ母《か》さんは。
姉。(微笑む。)実はおっ母さんが様子を見て来いといったから来ましたよ。三日ばかりお前さんが顔を見せないもんだから、心配をなすってね。それにゆうべ夢に見たから、何事かありゃしないかというのですよ。年が寄って病気だもんだから、迷信家になってしまって困りますの。(間。)上元気のようね。
画家。そうですよ。慢性怠惰病という病気は別として。
姉。(微笑む。)まあ、その病気なら命に別条はないでしょう。
画家。(真面目に。)そうさ。しかしある意味においては人を死なすかも知れません。(間。)おっ母さんには、今からマルリンクの処へ呼ばれて行く処だったとそう言って下さい。マルリンクの処ではない。欧羅巴《ヨオロッパ》ホテルです。宴会はホテルであるのです。一体おっ母さんは何をしていますか。
姉。やっぱりいつもの通りですよ。ちょいと。マッシャさんが何か用があるのでしょう。(モデル娘の方《かた》を顔にて示す。娘は上着を着、帽を被《かむ》り、何か用あり気に戸の近くに立ち留りいる。)
モデル。いえ。ただお暇乞《いとまごい》を致そうと存じまして。
画家。(少し腰を上げ、半ば向き返る。)好い好い。また来て貰おう。
姉。さようなら。
モデル。さようなら。御ゆっくりと。(退場。)
姉。あれが名高いマッシャなのね。
画家。(何か物を案じいて、気のなき返事をなす。)ええ。あれがマッシャです。
姉。去年の十一月に、あの大きい画をかいている頃、わたしに、色々話してお聞かせだったのね。
画家。(突然立ち上る。)姉さん。ちょっと御免なさいよ。
姉。ええ。
画家。(忙がわし気に戸口に行《ゆ》き、戸を開け、外に向きて呼ぶ。)おい。マッシャ。(間。梯子《はしご》を下《お》り行《ゆ》く足音留る。)マッシャ。
モデル。(梯子の下より。)ええ。只今《ただいま》。(急ぎ足にて梯子を登る音す。さて、戸の外まで帰り来たる様子なり。)
画家。さっきの事はなあ、己は何んとも思ってはいないよ。いいかい。
モデル。(梯子を駈け登りしため、息を切らしいる様子。)本当にあんまり出し抜けだもんですから、吃驚《びっくり》しましたのと、それにわたしは恥《はず》かしくって。
画家。なに。恥かしかったのだと。何んだ。馬鹿《ばか》らしい。だが好いよ。かきかけたスケッチはあそこにあるし、己の頭の中には印象がはっきりしているのだから。じゃあ明日《あした》来て貰おう。
モデル。(思い掛けぬ喜びの様子。)あの明日《あした》参っても宜《よろ》しいのですか。
画家。(徐《しずか》に。)うむ。午前八時か九時頃に来て貰おう。来られるかい。
モデル。ええ、ええ。
画家。それで好い。さようなら。(戸を閉じて忙がし気に帰り来て、姉に。)姉さん。済みませんでした。少し言い残したことがあったもんですから。
姉。大相《たいそう》勉強するのね。明日《あした》八時からかくなんて。
画家。なあに。どうなるか分りゃしない。ただやって見るのです。マッシャが僕に諫言《かんげん》をしたというようなわけで。ははは。それはそうと姉さんはマッシャに握手をしておやりなさいましたね。大変喜んだようでしたよ。
姉。そりゃあお前の話に好く聞いていたんだから、古い知合《しりあい》のようなんだもの。去年の冬、いろんな事を聞いたのでしょう。まあ、あたりまえのモデルとは違うのね。
画家。そりゃあ違います。
姉。だが、別品ではありませんね。
画家。僕は別品だなんといった事はないでしょう。
姉。(微笑む。)それはありませんとも。それにわたしは丁度あんな風な子だろうと思っていましたの。真面目な、静《しずか》な顔付で、色艶が余り好くなくって。口は何事も堪《こら》えて黙っているという風な、美しい口なのね。額と目とには気高い処がありますね。目なんかは丁度あんな風だろうと想像していましたの。
画家。(詞急に。)そうでしょう。面白い目です。あの目に今日気が付いたのです。(間。)その外の事も姉さんの思っている通りかも知れません。(姉は弟の詞を解《かい》し兼ねたる如《ごと》く、顔を見る。)僕のいったのは、あの娘の心も顔のような風かも知れないというのです。(間。突然。)そうそう。あのロイトホルド君が今に来るのですがね。姉さんはここで顔を合せるのが厭ではありませんか。
姉。いいえ。わたしは構いませんの。
画家。でもあんなに熱心に、姉さんをおよめに貰おうとしていたのを、姉さんが弾付《はねつ》けたのですから。
姉。なあに。ちっともことを荒立てずに断ったのだから、わたしはここで逢《あ》ったって、困りませんの。それにあの方はもう内へは来られないでしょう。おっ母さんが変に思うから。昔風の人の考では、結婚の話をし掛けて、話が破れてしまったものは、それからどんな風にして交際をして好いか分らないんですからね。しかしわたしの考では、そんな風に、因襲がどうにも極《き》めていない場合が、却《かえっ》て面白い関係になるかも知れないでしょうと思いますの。そうではないでしょうか。
画家。こりゃあ面白い。ふん。因襲の外《ほか》に立った関係は面白い。僕なんぞも、そういう関係を求めているようなものです。
姉。人生というものが、そうしたものではないでしょうか。
画家。ふん。
姉。一体人間の真実の交際はみんな因襲の外《ほか》の関係ではないでしょうか。
画家。姉さんは実に面白い人ですね。
姉。笑談《じょうだん》は置いて、わたしがこうやってここへ来るのなんぞも、同じ道理かも知れないでしょう。
画家。姉さんが僕の処へ来るのですか。そんなら僕が弟でなくっても、姉さんはこの画室に来るでしょうか。
姉。そうね。きょうだいでないとして見ると、何んという資格で来たら好いでしょう。
画家。ただ貴夫人として、知合として、友達として。
姉。友達ですか。
画家。ええ。友達になって来て下さるか、どうだか怪しいものですね。
姉。(笑いつつ。)お前の処へなら来るでしょうよ。
画家。(やはり笑いつつ。)まあ、来て下さるものだと思って置きましょうよ。(間。真面目に。)本当に姉さんが来て下さると好いのだが。
姉。(解《かい》せざる様子。)ええ。
画家。実は僕は寂しくって為様がないのです。こないだから姉さんの処へ越して行こうかとも思って見ました。たしか客間が一つ明いていたでしょう。それともここで寂しいと思うのは、あんまり家が広過ぎるせいかも知れません。兎《と》に角《かく》姉さんとおっ母さんと僕と一しょに住《すま》って見るという事が、出来ない事もあるまいと思うのです。晩にでもなれば誰《たれ》か本でも読んで、みんなでそれを聞いたって好いでしょう。燈《あかり》を点《つ》けて本を読むのが目に悪けりゃあ、話をしていたって好いわけです。誰かが纏《まとま》った話をして、みんなで聴いても好いでしょう。事によったら黙っていたって一人で黙っているよりは好かろうじゃありませんか。実際僕は折々そんな風にみんなと一しょになっているような心持になるのですよ。(疑念を挟《さしはさ》むらしき姉の目付を見て言い淀む。)ふん。
姉。お前がそんな風に一
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