実際駄目なのだ。それとも己《おれ》の顔はやっぱり作業熱のある顔に見えるかい。
モデル。そうではありませんけれど。
画家。処《ところ》で。
モデル。兎《と》に角《かく》愉快らしい顔をしていらっしゃるわ。
画家。そりゃあそうさ。愉快な事があったのだ。
モデル。きのう。
画家。うむ。しかも遅くなってからだ。思いかけない事もあるものさ。
モデル。そんなにお嬉《うれ》しい事なの。本当でございますか。
画家。うむ。本当だよ。
モデル。わたしの骨折《ほねおり》なんかは、なんでもございませんわ。(画家は何《な》んの事か、分らぬらしく、娘の顔を見る。娘は間《ま》の悪気《わるげ》に。)何んでもございませんの。今日はお為事におかかりなさいますかと思いましたので。
画家。そこで。
モデル。お部屋を綺麗《きれい》に致しましたの。しかし造做《ぞうさ》もない事でしたわ。
画家。(驚きて四辺《あたり》を見廻《みまわ》す。画室の塵《ちり》一本もなきように綺麗に掃除しあるに心付く。)うむ、なるほど。
モデル。ちっともお気がお付きなさらなかったの。
画家。(娘の顔の甚しき失望を表わせるに心付きて詞《ことば》急に。)うむ。うむ。お前の掃除をしてくれたのも思いかけない事には相違ないのだ。よくやってくれた。難有《ありがた》いよ。
モデル。(画家の方に背中を向け、余所余所《よそよそ》しく。)どう致しまして。
画家。丁度|好《よ》かったのだ。今日は愉快な事があるのだから。
モデル。それではやっぱりお始めなさいますの。(画家の方へ向き直る。)
画家。為事なんぞはしない。お客があるのだ。
モデル。え。
画家。ある貴夫人が見えるのだ。
モデル。え。
画家。お嬢さんだ。
モデル。その方をおかきなさるの。
画家。そうさね。かくかも知れないよ。(思に沈む。)実にきのう程妙な日はない。お前の事だから、話して聞かせよう。お前は急がしくはないのだろう。
モデル。いいえ。`別に用事はございませんの。
画家。そんなら腰でも掛けないか。(娘はやはり立ちいる。)まあ、考えて見ても知れるだろう。宴会なんというものは随分つまらないものなのだ。儀式張っていて、退屈で。おまけに婚礼の宴会と来ては堪《たま》らない。馬鹿《ばか》な演説が沢山あるだろう。とんちんかんな事だらけで、可笑《おか》しくもないのに笑ったり何かしているのだ。勿論《もちろん》そんな事だという事は初めから分っていたのさ。だが己は少し気が浮々して来たもんだから、むちゃくちゃに饒舌《しゃべ》っていたのだ。そうすると思いかけない事に出合ったよ。
モデル。その思いかけないと仰《おっし》ゃるのは。
画家。うむ。己の話の分ってくれる女がいたのだ。心《しん》から分るのだ。言筌《ごんせん》を離れて分ってくれるのだ。己の言う意味が分るかい。己とその女とは初めて顔を見合ったのだ。人に面倒な紹介をして貰《もら》ったわけじゃあない。あらゆる因襲を離れて出し抜けに出合ったのだ。人間と人間とが覿面《てきめん》に出合ったのだ。どんな工合《ぐあい》だか、お前には中々《なかなか》分るまい。食卓を離れてから、その女と隅の方へ引込んで、己は己の事を話す。女は女の事を話したのだ。何んでも、大体はお互に知り合っていて、瑣末《さまつ》な事を追加して話すというような工合さ。何んでも、万事いわなくっても先へ知れているという工合なのだ。妙じゃあないか。
モデル。(無理に微笑む。)それは随分ね。
画家。え。
モデル。随分珍らしい事というものでございましょうね。
画家。大抵一人の人間に打《ぶっ》つかろうというには、色々な準備が、支度が入《い》るものなのだ。初めの内は誤解もするし、怒《おこ》るような事もあるし、場合に依《よ》っては誰《たれ》か死ななくては目ざす人に近寄られないというような事さえある。人の心に取入るには、強盗に這入るような事をしなくてはならない。人の防禦《ぼうぎょ》しない折を狙《ねら》っていて、奇襲をやらなくちゃあならない事もある。どうかしたわけで、先方が門の戸を開けているのを見計らって、そこへ急に、乱暴に闖入《ちんにゅう》しなくちゃあならない。それにきのうなんぞの工合といったらないのだ。門戸は十字に開いてある。そこへ己が飛込んだのだ。そして。(娘の方を見る。)何か言ったのかい。
モデル。いいえ。そんな事がございましたら、どんなにか嬉しい事でしょうね。
画家。そりゃあ嬉しいさ。平然として人の腹の中に這入って行くのだ。風雨を冒して、冒険的に近付くのではない。平和のままで這入って行くのだ。自然にそうなくてはならないような工合に、青天白日に這入って行ったのだ。
モデル。へえ。
画家。分るかい。
モデル。(無理に微笑む。)少しはお察し申す事が出来ますの。
画家。(微笑む。さて、うっとりとして。)そうだろう。好くは分るまいな。己が無暗《むやみ》に饒舌《しゃべ》るから。しかし己はきのうの工合を自分の口でいって見て、その詞を自分の耳に聞いて見たいのだ。お前がそこで聴いていてくれなくても、己は一人で饒舌《しゃべ》りたい位なものだ。
モデル。(悲し気に。)それではわたしが承《うけたまわ》っていましても、お邪魔にだけは成りませんのね。
画家。なになに。(何か深く思うらしく。)そんな風に平和のままで相手の人間に近付くと、どの位の利益があるか分るかい。そういう時でなくっては、相手の人間の真実の処は分らないのだ。
モデル。真実の処ですって。
画家。そうさ。その人を買被《かいかぶ》ったり、見そこなったりしないで。
モデル。(何か物を思うらしく。)そうでこざいましょうとも。(詞急に。)そんな時にお感じになった事は間違いこはないと思っていらっしゃいますの。
画家。間違いこはないとも。きのう出し抜けに話合ったのを、お互に自然のように思うのと同じ事で、これから先一しょに生活して行く事をもお互に自然のように思うに違ない。
モデル。(驚《おどろき》を自《みずか》ら抑えて、詞急に。)そして、そのお嬢さんもあなたにすっかり身の上を打明けてお話しなさいましたの。
画家。うむ。跡になってすっかり話したのだ。初めに己が洗い浚《ざら》い饒舌《しゃべ》ってしまって、それから向うが話し出した。まるでずっと昔から知り合っている中《なか》のように、極親密に話したのだ。子供の時の事も聞いたし、双親《ふたおや》の事も聞いた。双親とも亡くなって、一人ぼっちなのだそうだ。あんな風になったのも、そのせいかも知れなかったよ。
モデル。あんな風と仰ゃるのは。
画家。不思議に打明けるようになったのが。
モデル。そのお嬢さんが一人ぼっちでいらっしゃったからだと仰ゃるのね。
画家。うむ。丁度己のように一人ぼっちでいたのだから。
モデル。あなたのようにですって。
画家。(微笑む。)そうさ。己のように一人ぼっちなんだ。ふん。お前のようにといっても好《い》いかも知れない。お前だって一体一人ぼっちなのだろう。
モデル。(無理に笑う。)わたしですか。わたしは随分お友達《ともだち》がございますわ。
画家。(娘の笑うのに、ほとんど気付かざる如《ごと》く。)ほんにあんな事があるという事をきのうより前に己にいうものがあったら、己だって信じはしなかったんだろうよ。(立ち上る。)
モデル。(また悲し気になる。)そうでございますね。きのうまでは夢にも心付かない事があるものでございますね。
画家。そうさ。人生はそうしたものだ。そこが人生の美しい処なのだよ。思いがけない処がなあ。(間。)
モデル。わたしのお父《とっ》さんがよくそう云《い》いましたっけ。思いかけずに死ぬるのが一番美しい死ですって。
画家。(娘の顔を見る。)何んだってそんな事を思い出したのだ。
モデル。つい思い出しましたの。
画家。お前にはそんな暗黒面でない、光明面の思い出はないのかい。
モデル。(何か言わんとして止《や》め、詞急に。)しかしわたしはもう。
画家。もう行くのかい。またおいでよ。
モデル。(二三歩|行《ゆ》きかかりて戻る。)もう当分伺いませんわ。
画家。なぜ。
モデル。でも当分御一しょの。(間。)あなたのお為事はだめでしょう。
画家。(娘の方を見ずに窓の処に行《ゆ》く。)うむ。そりゃあお前の言う通りかも知れない。(突然|活溌《かっぱつ》になりて二三歩前の方へ出《い》で、独言《ひとりごと》。)そのくせゆうべヘレエネと話しているうちに直《すぐ》にでもかき始められるように思ったのだが。(娘に。)己はそのお嬢さんに、己の絵の事をみんな話したのだ。
モデル。それでは去年の十一月におかきになった画《え》の事もお話しなさいましたの。
画家。それも話した。しかしおもにこれからかく分の事を話したのだ。今までかいた絵の事は向うにみんな知れているんだから。(娘不審気に画家の顔を見る。)そういっては分るまいが、己の既往の事が向うにみんな分ったのだから、己のかいた絵も、それがどんな絵か、どんな感情の絵かという事は向うに知れているのだ。熱心に、大急ぎで、切れ切れに話すうちに、何もかも不思議に向うに分ったのだ。しかしさっきも云う通り、主《おも》に話したのは未来にかく絵の事だ。それは是非話さなくてはならなかったからな。
モデル。(小声に。)よくまあそんなに何もかも一度にお話しなさる事が出来ましたのね。
画家。そうさ。そのうちにこんな絵があったよ。移住者という題なのだ。広い、平《たいら》な畠《はた》がある。収穫の後《のち》だ。何んだかこう利用してしまった土地というような風で、寂し気に、貧乏らしく見えている。そこを人が立ち去る処なのだ。一|群《むれ》の人がぴったり迫《せ》ぎ合って入日の方に向いて行くのが、暗い形に見えるのだ。多くは自分の輪廓《りんかく》に圧《お》されているように背中を曲げている。その事を話すとお嬢さんが云ったっけ、地平線に行って山にでもなってしまいそうな風に歩いて行くのでしょうねと云ったっけ。実によく呑込《のみこ》めたものだ。己の思っている人物は地平線の方に行って山になってしまいそうな形《かたち》に相違ない。(間。)それから、も一つこんな絵の事を話したっけ。画題は基督《キリスト》というのだ。己がその事を言い出すと、半分いわせずにお嬢さんがそういったっけ。人物ではないでしょう。風景でしょう。期待が当来を知らせるのでしょうと、そういったっけ。おい。マッシャ。かけるような気分に早くなって見たいなあ。(両手を拡げて未来を掻《か》き抱《いだ》く如き振《ふり》をなす。)
モデル。そうですね。実行が一番難しいのですね。
画家。そうだて。やる時は暴力でやるのだ。その日の朝だって、あたりまえの朝と変った事はないのだ。詩人なら机に向く。画かきなら画架に向く。そして出し抜けに未曾有《みぞうう》の事を決行するのだ。一体は沈黙の内でなくては思量せられないはずの事を、言語に現わし色彩に現わすのだ。言語で言えば、丁度熱心に、大声で、息をはずませて、人が千人も前に立っていて、その詞を飢えたものが麪包《パン》を求めるように求めている積《つもり》で、語り出すような工合に。
モデル。(ほとんど聞えざるほどの小声にて。)千人の人が待っているより、もっと切に待っているものがございますの。
画家。でもお前なんぞにはよくは分るまい。(疲れたる如く、手を額に翳《かざ》す。)
モデル。(徐《しずか》に。)それはどうせよくは分りませんわ。
画家。もう行くかい。(絵具入《えのぐいれ》の箪笥《たんす》に歩み寄り、紙巻を一本取りて火を付く。)そんなら暫《しばら》く合わないかも知れないよ。ヘレエネがもう来るはずだ。お前に用がある時が来れば、そういってやるよ。
モデル。わたしに御用がおありなさる時と仰ゃるのですね。
画家。うむ。葉書をやるよ。(握手せんとして手を差伸ぶ。握手。)冷たい手だな。(初めて気の付きたる如く顔を見る。)今日は大変に血色《けっしょく》が悪いよ。ゆうべ寐《ね》なかったのかい。
モデル。ええ。少ししきゃあ寐ませんでしたの。
画家。(握りたる手を放し、上《うわ》
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