》はとうから幾らもあるのだ。ただ片っ方の奴《やつ》をつかまえようとすれば外の奴が邪魔になる。でもどうかすると妙なことがある。先《せん》の週だっけ。雨の降った日がもう少しで暗くなろうという時だった。こう見るものが昔話のように、黄金色《こがねいろ》に見えたっけ。地《じ》が温かに、重いようで。背景が。そしてその前にあるものが、光って、輪廓《りんかく》がはっきりして、恐ろしく単純に見えたっけ。妙に情を動かすように単純に見えたっけ。そうだ。前の週の木曜日だったと思う。あんな時に直《す》ぐかき始めれば好いのだが。ついそんな時にいろんな事を考えるもんだから。
モデル。外《ほか》の事が邪魔に這入るのでしょう。不断の下らない事が。
画家。(立ち留りてモデルを見る。)お前のいう通りだ。その内呼びにやるぜ。
モデル。あしたはどうでしょう。
画家。あしたかい。あんまり性急だなあ。あしたはむずかしい。第一今夜は帰が遅くなるのだ。それにこの部屋も一度大掃除をしなくちゃあ。まあ、この埃を見てくれい。(モデル娘忙がわし気に帽《ぼう》を脱ぎ、上着を脱ぎかかる。)どうするのだ。
モデル。お掃除をしますわ。拭巾《ふきん》が
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