光線が足りない時なんぞは、どんなにか気を揉《も》んだものだ。悪くすると一日明るくならずにしまうのだからな。あの頃もっと勉強して置けば好《よ》かった。あの頃かけば幾らでもかけたような気がしてならない。この頃は、朝早くから窓一ぱいの光線が差込む。それを使わずに見ているのが癪《しゃく》に障るので、己は昼まで寝部屋の中に寝ているのだ。
モデル。それには夜遅くお帰りなさるせいもあるでしょう。(間《ま》。)
画家。(真面目《まじめ》に。)なるほど。そりゃあ遅く帰るせいもあるだろう。うむ。人間は気保養《きほよう》もしなくてはならないからな。
モデル。ええ。保養をなすって、それから為事におかかりなさるが好いわ。
画家。なんだ。妙に己に意見をするような事をいうなあ。
モデル。(間《ま》の悪気《わるげ》に。)そんな訳ではございませんが、ふいとそう思ったもんですから。それに詞《ことば》のはずみですわ。
画家。詞のはずみばっかりかい。何んだかお前は厭《いや》に賢夫人らしくなったじゃないか。
モデル。(笑う。)全く詞のはずみで。(間の悪気に言い淀《よど》む。)
画家。どうだい。お前は何か稽古《けいこ》なんぞをし
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