ますわ。
画家。それでもお前の頭に丁度好い工合に載せた花輪が無駄になって、あした載せたらもうそんな工合にはゆかないかも知れない。そういう事になったら、お前はどうするい。
モデル。そんならわたしは、花輪を頭に載せたままで、じっとしてそのあしたまで坐っていますわ。
画家。夜通しかい。
モデル。ええ。
画家。坐っていて居眠なんぞは出来ないのだぜ。居眠りなんぞをすると花輪が歪《ゆが》むからな。
モデル。居眠なんかしませんわ。
画家。折角そうしてくれても、翌日になって見れば、その花が萎《しぼ》んでいるかも知れない。
モデル。(悲し気に。)え。ほんにそうでございますね。萎んだ花は。
画家。(背中を向けつつ。)役には立つまい。
モデル。それはそうでございますとも。(間。娘はやはり花をいじりいる。)お嬢さんはどうなさいましたの。まだいらっしゃいますの。
画家。お嬢さんかい。(突然立ち留り、娘を屹《きっ》と見、早足に娘の傍《そば》に寄り、両手を娘の肩に置き、娘を自分の方へ向かせ、目と目を見合す。)マッシャお前かい。(娘は呆れて目を見張る。)お前はいつもここにいるのだな。(娘は何事とも分らぬらしく、一歩退く。)うむ。そんな事をいったって、お前には分らないはずだった。(手持|無沙汰《ぶさた》に、ほとんど恐る恐る。)マッシャ。この花はお前に遣《や》る。(娘はいよいよ呆れ、何事とも弁《わきま》えず、目をいよいよ大きく見張る。画家は何といわんかと、思い惑う様子にて。)それからこの柑子もお前に遣る。そしてお前と一しょに食べようじゃないか。そしてな。これからは柑子が出るたびに、いつでもお前と一しょに食べようじゃないか。
モデル。(忽然と非常なる喜に打たるる様子。)まあ。本当でございますか。
画家。(娘を抱《いだ》く。)己が悪かった。勘忍してくれい。(娘は顔を画家の胸に押付く。画家は徐《しずか》に娘の髪を撫づ。娘忽ち欷歔《ききょ》す。画家小声にて。)どうしたのだい。なぜ泣くんだい。
モデル。(泣笑《なきわらい》。)でもまたわたしの胸がこんなになっては、あなたがかかれないと仰ゃいますでしょう。
画家。(優しく。)ほんにお前は。
モデル。わたしは胸一ぱいになって、どう致して宜しいか分らないのですもの。(画家|徐《しずか》に娘の前に跪《ひざまず》き、娘を見上ぐ。娘両手にて画家の目を塞《ふさ》ぎ、顔次第に晴やかになりて微笑み、少し苦情らしき調子にて。)あのわたしが待受けていましたのは、これまで幾度《いくたび》だか知れなかったのに、あなたは黙っていらっしゃったのですわ。それなのに、ひょんな時、出し抜けにこんな事を仰ゃるのですもの。(幕。)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#ここから割り注]家常茶飯附録[#ここで割り注終わり] 現代思想(対話)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
太陽記者。こん度|私共《わたしども》の方で出すようになりました、あの家常茶飯《かじょうちゃはん》の作者のライネル・マリア・リルケというのは、あれは余り評判を聞かない人のようですが、一体どんな人ですか。
森。そうですね。私も好《よ》くは知りません。誰《たれ》も好くは知りますまい。あなたが御存じのないのも御尤《ごもっとも》です。これまでの処《ところ》では、履歴も精《くわ》しくは公《おおやけ》にせられていないのですから。
記者。しかし少しは知れていましょう。何処《どこ》の人ですか。
森。ボヘミア人です。それだから、現に墺匈国《オオストリア》の臣民になっています。八つの橋をモルダウ河に渡して両岸《りょうがん》に跨《また》がっているプラハの都府で、幾百年かの旧慣に縛られている貴族の家《うち》に、千八百七十五年十二月の九日に生れたということです。それですから、今年の十二月で満三十三年になる。私なんぞよりはほとんど二十年も若い。倅《せがれ》に持っても好《い》いような男です。家《うち》はケルンテンに代々土着していたということです。詩の中《うち》で、「森のなかなる七つの城に、三枝《みえだ》に花を咲かせた」家《いえ》だといっています。思想も貴族的で、先祖自慢をする処が、ゴビノオやニイチェに似ていますよ。肖像を見ると、われわれ日本人に余り縁遠くない、細おもての容貌《ようぼう》で、眼光が炯々《けいけい》としているのです。そのくせおとなしい人だそうです。むしろ女性的《にょせいてき》だということです。エルレン・ケイとひどく相獲《あいえ》ていると見えますね。
記者。それでは交際が広いのですね。
森。ある意味では広いと見えます。同臭のものを尋ねて欧洲《おうしゅう》大陸を半分位は歩いていましょう。何でも親達《おやたち》は軍人にする積《つもり》で、十ばかりの奴《やつ》を掴《つか》まえてウィインの幼
前へ
次へ
全21ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング