でございますか。
画家。(急に。)ええ。
令嬢。そう仰ゃれば、わたくしがこのお部屋へ参りまして、心付いた事がございますから、御遠慮なくそれを申して見ましょうか。
画家。何んでしょう。あなたがこの部屋へ這入って、直《すぐ》に気の付いた事があるというのですね。
令嬢。ええ。あなたの仰ゃるような幸福が。
画家。そんな幸福がどこかにあるというのですか。
令嬢。ええ。何んだかこのお部屋の空気の中に、そういう幸福の影が漂っているようでございますね。
画家。ふん。
令嬢。どうもわたくしには、そんな風に感じられますの。
画家。今でもですか。
令嬢。(徐《しずか》に。)なんでももうよほど前からの事でございますね。それがあなたには分らないでいるのでございましょう、何んでもあなたの生活にぴったり寄添っているものがございますように思われますの。その隠れた幸福と、あなたの生活とは、息が合っていますように、一つ呼吸をしていますように思われますの。思い違いかも知れません。こんなのが女の直覚とかいうものでございましょう。しかし考えて御覧なさいまし。お思い当りあそばす事がありは致しませんか。(画家|首《こうべ》を垂る。令嬢は徐《しずか》に画家の傍《かたわら》より離れ去る。)ね。何んでもいつもあなたのお傍《そば》にいて、あなたのお目に留らないような人がいるのではございませんか。その人は余りあなたの生活に密接な関係を持っていますので、あたたはそれを家常の茶飯のように思召てお気をお留めあそばさないのではございませんか。よくお考えなすって御覧なさいまし。ね。(徐《しずか》に戸の口に歩み寄り、徐《しずか》に戸を開き、退場。)
画家。(物思いに沈みて凝立すること暫くにして、忽然夢の覚めたるが如き気色《けしき》をなし、四辺《あたり》を見廻す。ようようにして我に返る。)ヘレエネさん。(戸口に走り寄り、荒らかに戸を開け、叫ぶ。)ヘレエネさん。(画家は暫く耳を聳《そばだ》ている。四辺《あたり》はひっそりとして物音無し。画家は再び戸を鎖し、跡に戻り、物を案ずる様《さま》にて部屋の内をあちこち歩き、何かそこらの物を手に取りては置き、また外の物を手に取りては置き、紙巻を一本取りて火を付け、一吸《ひとすい》吸い、忽《たちま》ちそれを投げ捨て、右手の為事机に駈け寄り、慌ただしく物をかき始む。暫くして何事をか口の内にてつぶやき、癇癪《かんしゃく》を起したる様子にて、その紙を引裂く。さて外の紙を取りてかき始め、暫くしてかき止《や》め、またその紙を引裂く。さて暫く空《くう》を睨《にら》みいて、忽ち激しき運動にて両手を顔に覆い、両肱《りょうひじ》を机に突き、死人の如く動かずに坐《すわ》りいる。○暫くありて、戸口よりモデル娘|入《い》り来《きた》る。徐《しずか》にためらいつつ部屋の内に進み、始終物を怖《おそ》るる如く四辺《あたり》を見廻す。娘は片手に伊太利亜種《イタリアだね》の赤き翁草《おきなぐさ》の花の大束を持ち、片手に柑子を盛りたる籠《かご》を持ちいる。さて画家の、己《おの》れの方に背中を向けて、先《さき》の姿勢を取りおるを見付け、驚き、徐《しずか》に。)
モデル。今日《こんち》は。(ひっそりとして物音無し。娘は徐《しずか》に煖炉《だんろ》に歩み寄り、その上なる素焼の瓶《びん》を取りて絵具入の箪笥の上に据え、それに翁草の花を挿す。その間《あいだ》に画家は少し身を動かし、娘を見る。さて立ち上らんとしてまた腰を落し、女のする事を見ている。娘は忽ち画家の己《おの》れを見るに心付き、詞急に。)お休《やすみ》なすったの。(間。)花を持って参りましたの。そしてあの柑子も。
画家。(詞急に。)うむ。好い好い。(立ち上り、歩み寄る。)翁草を買って来たね。お前はその花が好きかい。
モデル。(驚く。)これではいけなかったのですか。
画家。好いとも。(花を二三本取りて、娘の髪に当てがい見る。)お前のブロンドな髪に映りが好いぜ。
モデル。(さっぱりと)そのお嬢さんがわたしの髪とおんなじならようございますが。
画家。(驚きたる顔にて相手を見、さて。)ああ、その事かい。(間。)そんな事はもう忘れていた。己はただこの花を花輪にして、お前の髪に載せたらどんな工合だろうかと思ったのだ。
モデル。(花をいじりつつ。)そうしてかいて見ようと思いなすったの。
画家。まあ、そう思ったとしてな。お前にその花輪を戴《いただ》かせて見た処が、ひどく映りが好かったのだ。そこでかこうと思ったが。
モデル。え。
画家。かこうと思ったが、その時丁度かく気になれなかったとしよう。頭痛か何かするのだな。そうしたらお前はどうするい。
モデル。待っていますわ。
画家。その内に日が暮れてしまって、かけなくなったらどうするい。
モデル。そんならそのあしたまで待ち
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