ゃるけれど、あなたのおかきになった絵だって、いつ誰《だれ》が見てもその絵と見えるように、いつもそこにあるというわけではございますまい。そんな事はないのでございましょう。あなたの絵があるというのは、あなたの絵の生命のある処へ這入って行く事の出来る人のためにあるというわけでございましょう。その意味からいえば、ゆうべお作りなさった作品も、不朽に存在しているというものではございますまいか。
画家。(真面目に相手を見る。間。)なるほど。あなたはそんな風に考えたのですか。
令嬢。(頷く。)ええ。そう考えましてわたくしだけは、生活のために必要なある教《おしえ》を得たのでございますの。
画家。そう云うと教というものが、必要なようですが、実は世の中には、何んといったら好いでしょうか、手本無しに生活して見ようという人も随分あるのではないでしょうか。因襲なんぞから得《え》来《きた》った智識《ちしき》を自分に応用せずに、初めて人間として生れて来たもののように振舞うのですね。もしそういう人があったなら、その人は一つ一つの出来事に、それに協《かな》った尺度を持って行って当てるわけではないでしょうか。無意識にそれに協った尺度を当てるのですね。
令嬢。それは一つか二つか、三つ位までの出来事には無意識に当てた尺度が丁度好いという事もあるのでございましょう。しかし幾ら手本無しに生活すると申《もうし》ましても、そういう人でございましても、どうせ生々《ういうい》しいのでございましょうから、何事かに出合まして、五つや六つの調子を覚えましても、それから先は分りませんから、その五つか六つの調子をあらゆるものに当て嵌める事になってしまうのでございましょう。人生に応ずるには幾千の調子が入《い》るか知れないのでございます。そこで一つ間違を致しますと、そういう人は慌てまして、きっとこれまでに覚えている因襲の内の、一番現在の場合に当嵌りそうなのを持って来て、それを応用しようと致すのでございましょう。(間。)あなたのお身の上で申して見ますれば、あなたはわたくしと結婚あそばしたのでございましょう。
画家。(正直に驚きたる様子。)いや。結婚なぞをする積《つもり》ではなかったのです。
令嬢。結婚はなさらなかったのでございますの。そんならどうあそばすはずでございましたの。
画家。そりゃあ。(間。)そうですね。そんな事をいったって駄目だし。
令嬢。いいえ。なんでも宜しゅうございますから言って御覧なさいましよ。
画家。ただ一しょになっていたのだろうというのです。
令嬢。ここにでございますか。
画家。それはここでも好いし、どこか外《ほか》へ行ったら、猶《なお》好いでしょう。あなたのおばさんが喧《やかま》しそうですから。
令嬢。まあ。結婚も致さずに、ただ何がなしに御一しょにいるのでございますね。
画家。そうです。何がなしにです。そら。外の絵かきもやっているでしょう。(令嬢笑う。画家黙りて相手の顔を、何故《なにゆえ》笑うかと問いたげに見る。令嬢いよいよ笑う。)何がそんなに可笑《おか》しいのですか。
令嬢。それでも、そんな風な生活は、もうとっくに因襲になってしまっているじゃあございませんか。
画家。それでも。因襲といったって。
令嬢。ええ、ええ。同じ因襲でも、一般の社会での因襲でなくって、ある狭い仲間内での因襲でございましょう。しかし因襲は因襲でございますから、狭い仲間内の因襲だからと申しましても、特別に好いはずはないではございますまいか。そんな風に致しましたら、わたくしはやっぱり段々に扮装《みなり》なんぞは構わなくなりまして、化粧《おしまい》も致さないようになりますのでございましょう。(画家|呆《あき》れて相手の顔を見おり、さてついに己《おの》れも笑い出《いだ》す。令嬢また笑う。)それ御覧なさいましな。(間。)まあ、お互にこういたして笑っていられます間に、お暇乞《いとまごい》をいたしましょう。
画家。(驚く。)行くのですか。
令嬢。ええ。ただ、今一つ申して置きたい事がございます。どうぞこんな事になりましたのを、おくやみなさらないで下さいまし。もしわたくしの事を思い出して下さいますなら、どうぞ昨晩のような調子にしてお考えあそばして下さいまし。美しい調子に、メロヂイのある調子にしてお思い出しあそばして下さいまし。それだけは是非お願い申して置かなくてはなりません。わたくしの致した事を、もし不断の尺度で、日常生活の尺度で量って下さいましたら、それはわたくしのためにひどい冤罪《えんざい》になるのでございますから。
画家。(令嬢の手を握り、目を見合せ、黙りいる。さて。)どうもこうなれば為様がありません。日常生活の尺度で量っても好いような幸福はないものでしょうか。(手を放す。)
令嬢。そんな幸福を求めようと仰ゃるの
前へ
次へ
全21ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング