誼《ゆうぎ》の法則なぞがそれですね。(学士と握手せんとす。)
学士。(十分の敬意を以《もっ》て、ゾフィイの手に接吻《せっぷん》す。)今日《こんにち》は色々お話を承って為合《しあわ》せを致しました。
姉。それではそのうち。
学士。ええ。またお目にかかりましょう。
画家。まあ、兎に角梯子段の下までは一しょに行きましょう。さあ。(戸を開き、姉と学士とを出《いだ》しやり、自分も続いて退場。○舞台は一二分間空虚になりおる。さて外より戸を開け、先にモデル娘、続いてウェエベルの上《かみ》さん、箒《ほうき》、バケツ、雑巾《ぞうきん》を持ち、登場。)
モデル。(快活に。)さあお上さん。家番《やばん》のおじさんが鍵は持ってるだろうと思ったが、その通りでしたね。構わないからお這入りなさいよ。(手早く帽とジャケツとを脱ぎ捨て、大いなる白の前掛を取出《とりいだ》して掛く。)大急ぎでやらなくっちゃあ、駄目ですよ。まだ二時間は日があるでしょう。そのうちにあらまし片付けてしまわなくちゃならないからね。さあ。この煖炉の処から始めて下さいよ。
上さん。(のろのろと。)はい、はい、もう大分遅いからね。それに随分広い部屋だ。一体あしたの朝ゆっくりにした方が好かったのに。
モデル。(じれった気に。)そんな事をいうのではないよ。あすの朝は綺麗《きれい》になっていなくちゃならないのだから。
上さん。(襷《たすき》を掛く。)なるほどね。(掃除道具を運ぶ。)あしたは御祝儀でもあるのですかい。
モデル。(さっさと為事にかかり、卓《たく》の上を片付けつつ、にこやかに。)ええ、ええ。あしたはお目出たい日なのよ。
[#ここで字下げ終わり]
第二場
[#ここから4字下げ]
翌朝《よくちょう》。画家は楽気《らくげ》に凭掛《よりかかり》の椅子《いす》に掛り、莨《たばこ》を喫《の》み、珈琲《コオフィイ》を飲み、スケッチの手帳を繰拡《くりひろ》げ、見ている。戸を叩《たた》く音《おと》す。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
画家。お這入《はい》んなさい。
モデル。今日《こんち》は。
画家。マッシャか這入れよ。(モデル急がし気《げ》に入《い》る。画家はやはりスケッチの手帳を引繰返しつつ。)為事《しごと》は今日は駄目だよ。)
モデル。(驚きたる様子。)おや。
画家。(微笑《ほほえみ》。)実際駄目なのだ。それとも己《おれ》の顔はやっぱり作業熱のある顔に見えるかい。
モデル。そうではありませんけれど。
画家。処《ところ》で。
モデル。兎《と》に角《かく》愉快らしい顔をしていらっしゃるわ。
画家。そりゃあそうさ。愉快な事があったのだ。
モデル。きのう。
画家。うむ。しかも遅くなってからだ。思いかけない事もあるものさ。
モデル。そんなにお嬉《うれ》しい事なの。本当でございますか。
画家。うむ。本当だよ。
モデル。わたしの骨折《ほねおり》なんかは、なんでもございませんわ。(画家は何《な》んの事か、分らぬらしく、娘の顔を見る。娘は間《ま》の悪気《わるげ》に。)何んでもございませんの。今日はお為事におかかりなさいますかと思いましたので。
画家。そこで。
モデル。お部屋を綺麗《きれい》に致しましたの。しかし造做《ぞうさ》もない事でしたわ。
画家。(驚きて四辺《あたり》を見廻《みまわ》す。画室の塵《ちり》一本もなきように綺麗に掃除しあるに心付く。)うむ、なるほど。
モデル。ちっともお気がお付きなさらなかったの。
画家。(娘の顔の甚しき失望を表わせるに心付きて詞《ことば》急に。)うむ。うむ。お前の掃除をしてくれたのも思いかけない事には相違ないのだ。よくやってくれた。難有《ありがた》いよ。
モデル。(画家の方に背中を向け、余所余所《よそよそ》しく。)どう致しまして。
画家。丁度|好《よ》かったのだ。今日は愉快な事があるのだから。
モデル。それではやっぱりお始めなさいますの。(画家の方へ向き直る。)
画家。為事なんぞはしない。お客があるのだ。
モデル。え。
画家。ある貴夫人が見えるのだ。
モデル。え。
画家。お嬢さんだ。
モデル。その方をおかきなさるの。
画家。そうさね。かくかも知れないよ。(思に沈む。)実にきのう程妙な日はない。お前の事だから、話して聞かせよう。お前は急がしくはないのだろう。
モデル。いいえ。`別に用事はございませんの。
画家。そんなら腰でも掛けないか。(娘はやはり立ちいる。)まあ、考えて見ても知れるだろう。宴会なんというものは随分つまらないものなのだ。儀式張っていて、退屈で。おまけに婚礼の宴会と来ては堪《たま》らない。馬鹿《ばか》な演説が沢山あるだろう。とんちんかんな事だらけで、可笑《おか》しくもないのに笑ったり何かしているのだ。勿論《もちろん》そんな
前へ
次へ
全21ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング