ないかと思うのです。なぜというのに、折角旧思想を取片付けてしまっても、その跡の、石瓦《いしかわら》に覆われた地面の上には、新思想は芽ざして来ないかも知れませんから。新思想の生えて来るには、何処《どこ》か別に新しい地面が入《い》るのではないでしょうか。
姉。それではあなたは、この世界にまだどこか人の手の触れない新しい土地があるように思っていらっしゃいますの。
学士。ええ。もし人の手の触れない土地がもうないという段になれば、それは新しい土地が海の中から湧《わ》き出ても好いでしょう。
画家。君は詩人ですね。
学士。そうですね。詩人なら、君なんぞの読まない旧派詩人でしょう。
画家。いや。僕は新派も旧派も読みませんよ。妙な工合で、僕も誰かの句が気に入って覚えていることはあるのです。それがロオマンチックの詩人であったり、デカダンであったりするのです。仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリア》、独逸《ドイツ》、露西亜《ロシア》、どの国のものだか分らなくなることもあるのです。気に入った句は、どの詩人のでもみんな一人で作ったもののように、僕には思われるのです。
学士。そりゃあ、それも一理ありますよ。どの詩人の背後にも唯一の詩人がいるのでしょうから。
画家。ふん。神だというのですか。
学士。君はそれを神と名附けますか。
画家。(答に窮する様子。)僕には分りませんなあ。(間。)
学士。(時計を見る。)しかしもう時刻が。
画家。(目の覚めたる如く。)そうだそうだ。もう遅くなる。君、車が下に待たせてありますか。
学士。待たせてありますよ。
画家。それじゃあ、ちょっと腰を掛けて待っていて下さい。姉さん。ロイトホルド君にその紙巻の箱を上げて下さい。箱のある処は分っているでしょう。僕は直ぐ来ますから。(急ぎて寝間に入《い》る。)
姉。(凭掛りの椅子を示す。)どうぞお掛けなすって。お莨を上りますか。
学士。いえ。只今は頂戴《ちょうだい》いたしますまい。食事|前《ぜん》ですから。(ゾフィイは藁椅子を持ち来て腰を掛く。学士はその椅子を自分にて持ち来らんとして馳《は》せ寄る。)御免下さい。うっかりしていました。
姉。どう致しまして。わたくしはいつも自分の体の事は自分で致すのですから。(藁椅子に腰を掛く。学士は椅背《きはい》に寄りかからずに、背を真直《ますぐ》にして腰を掛く。○間。)あなたマルリンク家とお心易《こころやす》くしていらっしゃいますの。
学士。そうですね。古い知合という程度ですよ。年を取った男爵は、わたくしの医者としての職業上で、よほど前からわたくしと交際していられるのです。それから今度嫁に来られるお嫁さんのお里もわたくしは知っています。
姉。それでは御縁組のある両家ともお知合なのですね。それなのに儀式にはいらっしゃらなかったのですか。
学士。いや。わたくしは婚礼の席へ行くのは大嫌《だいきらい》です。
姉。気味の悪いようにお思いなさるのでしょうか。
学士。そうですね。何んだかこう角立《かどだ》って、大業《おおぎょう》に見せるのが不愉快なのです。
姉。それではあなたのお考《かんがえ》では、婚礼というものは、こっそりいたした方が宜しいのですね。
学士。ええ。なるべく目に立たないようにしたいものです。葬《とむらい》の方なら、少しは盛大にしたって好いのです。死人を嫉《ねた》むものはありませんから。
姉。それはそうでございますね。死人なら誰も嫉みは致しますまい。そういうお心持は分りますわ。
学士。どうお分りですか。
姉。あなたは生活がお好《すき》なのでしょう。
学士。(微笑む。)兎に角生活していますよ。
姉。それだけで沢山です。兎に角あなたは旧思想の方《かた》ではございませんのね。
学士。(微笑む。)それでは旧思想の人は生活していないと仰《おっし》ゃるのですか。
姉。(たゆたいつつ。)それは同じ生活しているといっても違いますわ。
画家。(外套《がいとう》を着、手に帽と手袋とを持ち登場。)さあ。行きましょう。
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(学士立つ。)
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姉。遅くなりはしなくって。
画家。なあに。四五分で行かれるのだから。
姉。(学士に。)そんなら、御機嫌宜しゅう。もっとお話が伺いたかったのですが、為様がございませんね。事によったらまたここで偶然お目にかかれるかも知れませんね。
学士。そんな偶然な事があっても、あなたは御迷惑ではございませんか。
姉。いいえ。どう致しまして。それに偶然というものもつまりは法則があって出来るのではございますまいか。
学士。それであなたは法則というものを尊《たっと》んでいらっしゃるのですね。
姉。ある法則には服従しますわ。言って見れば。
学士。言って見れば。
姉。言って見れば、友
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