事だという事は初めから分っていたのさ。だが己は少し気が浮々して来たもんだから、むちゃくちゃに饒舌《しゃべ》っていたのだ。そうすると思いかけない事に出合ったよ。
モデル。その思いかけないと仰《おっし》ゃるのは。
画家。うむ。己の話の分ってくれる女がいたのだ。心《しん》から分るのだ。言筌《ごんせん》を離れて分ってくれるのだ。己の言う意味が分るかい。己とその女とは初めて顔を見合ったのだ。人に面倒な紹介をして貰《もら》ったわけじゃあない。あらゆる因襲を離れて出し抜けに出合ったのだ。人間と人間とが覿面《てきめん》に出合ったのだ。どんな工合《ぐあい》だか、お前には中々《なかなか》分るまい。食卓を離れてから、その女と隅の方へ引込んで、己は己の事を話す。女は女の事を話したのだ。何んでも、大体はお互に知り合っていて、瑣末《さまつ》な事を追加して話すというような工合さ。何んでも、万事いわなくっても先へ知れているという工合なのだ。妙じゃあないか。
モデル。(無理に微笑む。)それは随分ね。
画家。え。
モデル。随分珍らしい事というものでございましょうね。
画家。大抵一人の人間に打《ぶっ》つかろうというには、色々な準備が、支度が入《い》るものなのだ。初めの内は誤解もするし、怒《おこ》るような事もあるし、場合に依《よ》っては誰《たれ》か死ななくては目ざす人に近寄られないというような事さえある。人の心に取入るには、強盗に這入るような事をしなくてはならない。人の防禦《ぼうぎょ》しない折を狙《ねら》っていて、奇襲をやらなくちゃあならない事もある。どうかしたわけで、先方が門の戸を開けているのを見計らって、そこへ急に、乱暴に闖入《ちんにゅう》しなくちゃあならない。それにきのうなんぞの工合といったらないのだ。門戸は十字に開いてある。そこへ己が飛込んだのだ。そして。(娘の方を見る。)何か言ったのかい。
モデル。いいえ。そんな事がございましたら、どんなにか嬉しい事でしょうね。
画家。そりゃあ嬉しいさ。平然として人の腹の中に這入って行くのだ。風雨を冒して、冒険的に近付くのではない。平和のままで這入って行くのだ。自然にそうなくてはならないような工合に、青天白日に這入って行ったのだ。
モデル。へえ。
画家。分るかい。
モデル。(無理に微笑む。)少しはお察し申す事が出来ますの。
画家。(微笑む。さて、うっとりとして。)そうだろう。好くは分るまいな。己が無暗《むやみ》に饒舌《しゃべ》るから。しかし己はきのうの工合を自分の口でいって見て、その詞を自分の耳に聞いて見たいのだ。お前がそこで聴いていてくれなくても、己は一人で饒舌《しゃべ》りたい位なものだ。
モデル。(悲し気に。)それではわたしが承《うけたまわ》っていましても、お邪魔にだけは成りませんのね。
画家。なになに。(何か深く思うらしく。)そんな風に平和のままで相手の人間に近付くと、どの位の利益があるか分るかい。そういう時でなくっては、相手の人間の真実の処は分らないのだ。
モデル。真実の処ですって。
画家。そうさ。その人を買被《かいかぶ》ったり、見そこなったりしないで。
モデル。(何か物を思うらしく。)そうでこざいましょうとも。(詞急に。)そんな時にお感じになった事は間違いこはないと思っていらっしゃいますの。
画家。間違いこはないとも。きのう出し抜けに話合ったのを、お互に自然のように思うのと同じ事で、これから先一しょに生活して行く事をもお互に自然のように思うに違ない。
モデル。(驚《おどろき》を自《みずか》ら抑えて、詞急に。)そして、そのお嬢さんもあなたにすっかり身の上を打明けてお話しなさいましたの。
画家。うむ。跡になってすっかり話したのだ。初めに己が洗い浚《ざら》い饒舌《しゃべ》ってしまって、それから向うが話し出した。まるでずっと昔から知り合っている中《なか》のように、極親密に話したのだ。子供の時の事も聞いたし、双親《ふたおや》の事も聞いた。双親とも亡くなって、一人ぼっちなのだそうだ。あんな風になったのも、そのせいかも知れなかったよ。
モデル。あんな風と仰ゃるのは。
画家。不思議に打明けるようになったのが。
モデル。そのお嬢さんが一人ぼっちでいらっしゃったからだと仰ゃるのね。
画家。うむ。丁度己のように一人ぼっちでいたのだから。
モデル。あなたのようにですって。
画家。(微笑む。)そうさ。己のように一人ぼっちなんだ。ふん。お前のようにといっても好《い》いかも知れない。お前だって一体一人ぼっちなのだろう。
モデル。(無理に笑う。)わたしですか。わたしは随分お友達《ともだち》がございますわ。
画家。(娘の笑うのに、ほとんど気付かざる如《ごと》く。)ほんにあんな事があるという事をきのうより前に己にいうものがあったら、己だって信じはし
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