日よりも一層完全に出來得るかと思ふのであります。假名遣の困難と云ふことに就いては主として字音假名遣のことが擧げられてあります。此の字音のことは洵《まこと》に困難な問題でありまして、古い所の、古いと云つても是れは十八世紀ではありまするが、僧|文雄《ぶんゆう》の「麿光韻鏡」から以來、本居の「漢字三音考」と「字音假名遣」、文政中の太田全齋の「漢呉音圖」、現存して居られる木村正辭先生の「漢呉音圖正誤」、先づ斯う云ふやうな系統で、字音の研究がしてある。大槻先生の仰しやつた通りに實に是れは頭痛のするやうな本であります。詩を作つたことのない者などには所詮覺えられぬと云ふ御論は尤もに聽きました。併しながら是れも其の極く困難な部分は殆ど大槻博士の御演説の中に網羅《まうら》してあつたやうに思ふ。兎に角一場の御演説で困難な部分は網羅し得られるのでありまして、其の外は割合に容易《やさ》しいのであります。此の字音の假名遣に對する、之に處する道を考へまするには、漢語がどの位日本化して居るかと云ふ程度を研究する必要があります。先刻申します通り全く字音が國語に化して居るのがある。それからそれに亞《つ》ぎまして、「文」
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