ましたが、此點に於ては少し私は別な意見を持つて居ります。主《お》もに違ふと云ふことの論據になつて居りまするのは外國の Orthographie は廣く人民の用ゐるものである、我邦の假名遣は少數者の用ゐるものであると云ふことであります。併しさう云ふやうに假名遣が廣く行はれて居らぬと行はれて居るとの別と云ふものは、或は其の國の教育の普及の程度にも關係します。又教育の方向、どう云ふ向きに教育が向いて居るかと云ふことにも關係しますのであります。元來物の性質から言つて見れば外國の Orthographie と我が假名遣とは同一なものである、同一に考へて差支ないやうに信じます。一體假名遣を歴史的と稱するのは或る宣告を假名遣に與へるやうなものであつて私は好まない。一體假名遣を觀るには凡そ三つの方面から觀察することが出來ようと思ひます。即ち一は歴史的の方面である。一は發音的即ち Phonetik の方面である。其の外にまだ語原的即ち Etymologie から觀ると云ふ見方がございますけれども、是れは先づ歴史的と或る關係を有つて居るやうに思ひます。一國の言葉が初め口語であつたのが、文語になる時に、此の
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