に申します通り定家假名遣と云ふものは一時の流行病であつたから、それを治療しようと思つて和學者が起つたのだらうと私は思ふ。尚ほ進んで考へますると云ふと、發音的の側から見ると、定家假名遣よりか、復古の假名遣の方が餘程發音的なやうに認められます。此の古學者の假名遣も、勿論諸君のお認めになつて居るやうに少數者の用にしかならないのであります。そんなら其の他の一般の人民はどうして居つたかと云ふと、或は定家の式に從つたと認める人もありませう、或は何にも據《よ》らず亂雜に書いたと云ふことも認められませうと思ひます。斯う云ふ統計は殆ど不可能であります。無論定家の假名遣で書くと云ふ人は物語類でも讀むとか、北村季吟などが作つた「湖月抄」とか、あゝ云ふ物でも讀んで居る人の上であつて、其外は矢張亂雜でありませう。又漢學の方に主もに力を入れる人は假名遣などは構はぬと云つて亂雜に安んじて居つたのでありませう。併し是等が多數のものに行はれないと云ふのは教育の方向、若《もしく》は其の普及の程度に依つて定まるのではないかと思はれるのであります。そこで假名遣を排斥すると云ふことは極く最近に起つて參りました。斯う云ふ運動にも
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