り過ぎた位だ。時代は啻《ただ》に一つの大議論家を出したのみではなくて、ほとんど無数の大議論家を出して止《や》む時がない。即ち新文学士の諸先生がそれである。試みに帝大文学の初の数十冊を始として、同時に出た博文館の太陽以下の諸雑誌、東京の諸新聞を見たならば、鴎外と云う名に幾条の箭《や》が中《あた》っているかが知れるだろう。鴎外という名はこの乱軍の間に聞こえなくなった。鴎外漁史はここに死んだ。読者は新年の初刊を看《み》てここに至る時、縁起が悪いと云うかも知れない。しかし初春の狂言には曽我《そが》を演ずるを吉例としてある。曽我は敵討《かたきうち》で、敵を討てば人死のあることを免れない。況《いわん》や鴎外漁史は一の抽象人物で、その死んだのは、児童の玩《もてあそ》んでいた泥孩《つちにんぎょう》が毀《こわ》れたに殊ならぬのだ。予は人の葬を送って墓穴に臨んだ時、遺族の少年男女の優しい手が、浄《きよ》い赭土《あかつち》をぼろぼろと穴の中に翻《こぼ》すのを見て、地下の客がいかにも軟《やわらか》な暖な感を作すであろうと思ったことがある。鴎外の墓穴には沙礫《されき》乱下したのを見る外、ほとんど軟い土を投じたのを見なかった。ただ一ついくらか手軟だと思ったのは、ほととぎすの記者が、鴎外も最早今まで我等に与えた程のものをば与うることを得ぬであろうと云ったくらいなものだ。ついでだから話すが、今の文壇というものは、鴎外|陣亡《うちじに》の後に立ったものであって、前から名の聞こえて居た人の、猶《なお》その間に雑《まじ》って活動しているのは、ほとんど彼ほととぎすの子規のみであろう。ある人がかつて俳諧《はいかい》は普遍の徳があるとか云ったが、子規の一派の永く活動しているのは、この普遍の徳にでも基《もとづ》いて居るものであろう。予が主筆のために説かんと約した鴎外漁史の事は此《ここ》に終る。しかし予は主筆に、予をして猶|暫《しばら》く語らしめん事を願う。想うにこの文を読むものは予に対《むか》って、汝は汝の分身たる鴎外の死んだのを見て、奈何《いかん》の観を作《な》すかと問うであろう。予はただ笑止に思うに過ぎぬ。予はただここに一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《いっしゅ》の香を拈《ひね》ってこれを弔するに過ぎぬ。予にしてもし彼の偽の幸福のために、別方面の種々の事業の阻礙《そがい》をさえ忘るるものであった
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