て文学の事を談じたという宿因あるが故だ。ここに書くところは即ち予の懺悔《ざんげ》で、彼宿因を了する所以《ゆえん》だ。人は社会を成す動物だ。樵夫《きこり》は樵夫と相交って相語る。漁夫は漁夫と相交って相語る。予は読書癖があるので、文を好む友を獲て共に語るのを楽《たのしみ》にして居た。然るに国民之友の主筆徳富猪一郎君が予の語る所を公衆に紹介しようと思い立たれて、丁度今猪股君が予に要求せられる通りに要求せられた。これが予が個人と語ることから、公衆と語ることに転じた始で、所謂《いわゆる》鴎外漁史はここに生れた。それから東京の新聞雑誌が、彼も此も予を延《ひ》いて語らしめた。予は個人に対しても、時に応じ人を得るときは、頗《すこぶ》る饒舌《しゃべ》る性《たち》であるが、当時予はまた公衆に対して饒舌った。新聞雑誌は初は予を強要して語らしめたが、後にはそう大言壮語せられては困るとか云って、予の饒舌るに辟易《へきえき》した。昔者《むかしは》道士があって、咒《じゅ》を称《とな》え鬼を役して灑掃《さいそう》せしめたそうだ。その弟子が窃《ぬす》み聴いてその咒を記《おぼ》えて、道士の留守を伺《うかご》うて鬼を喚《よ》んだ。鬼は現われて水を灑《ま》き始めた。而《しか》るに弟子は召《よ》ぶを知って逐《お》うを知らぬので、満屋皆水なるに至って周章|措《お》く所を知らなかったということがある。当時の新聞雑誌はこの弟子であった。予はこれを語るにつけても、主筆猪股君がこの原稿に接して、早く既に同じ周章をせねば好いがと懸念する。予の公衆に語る習はこれにも屈せず、予は終《つい》に人の己を席に延くを待たぬようになった。自ら席を設けて公衆に語るようになった。柵草紙《しがらみそうし》と云ったのがその席だ。この柵草紙の盛時が、即ち鴎外という名の、毀誉褒貶《きよほうへん》の旋風《つむじかぜ》に翻弄《ほんろう》せられて、予に実に副《かな》わざる偽《いつわり》の幸福を贈り、予に学界官途の不信任を与えた時である。その頃露伴が予に謂《い》うには、君は好んで人と議論を闘わして、ほとんど百戦百勝という有様であるが、善く泅《およ》ぐものは水に溺《おぼ》れ、善く騎《の》るものは馬より墜《お》つる訣《わけ》で、早晩《いつか》一の大議論家が出て、君をして一敗地に塗《まみ》れしむるであろうと云った。この言はある意味より見れば、確に当った、否当
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