3水準1−47−81]《すう》、字《あざな》は山松《さんしよう》であつた。※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵は其通称、後に為春院の号を賜はつた。
その三百六
わたくしは此年丁巳に両多紀氏に代替《だいがはり》のあつた事を言つた。宗家は暁湖を失ひ、分家は※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭を失つたのである。松田氏の談に拠れば、後に柏軒の幕府に重用せられたのは、※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭と辻元冬嶺との歿後に筮仕《ぜいし》したからださうである。わたくしは武鑑と大沼枕山の同人集とを引いて、冬嶺の歿年を推測し、安政丙辰八十歳若しくは丁巳八十一歳であらうと言つた。
香亭《かうてい》雅談に拠るに、冬嶺は山本北山の門人で、奚疑塾《けいぎじゆく》にあつた頃は貧窶《ひんる》甚しかつた。その始て幕府に仕へたのは嘉永中の事で、此より弟子大に進み、病客も亦|蝟集《ゐしふ》したさうである。
是に由つて観れば、冬嶺の名を顕したのは七十歳後の事である。丁巳以後の武鑑には、寄合医師の下《もと》に「辻元復庵」の名が見えてゐる。恐くは是が冬嶺の後《のち》であらう。
真野氏では此年丁巳に陶後頼寛《たうごよりひろ》が八十歳で歿した。継嗣は竹陶頼直《ちくたうよりなほ》で、怙《ちゝ》を失つた時三十八歳であつた。頼直は弘化四年より阿部正弘の近習を勤めてゐた。一載の間に父を失ひ又主を喪つたのである。
志村|玄叔良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《げんしゆくりやうがい》が柏軒の門に入つたのは此年丁巳であつた。出羽国山形の藩士で、当時の主君は水野左近将監|忠精《たゞきよ》であつた。良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は天保九年生で二十歳になつてゐたのである。是は良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]さんの渋江氏に語つた所である。
此年棠軒二十四、妻|柏《かえ》二十三、女《ぢよ》長《ちやう》四つ、良《よし》二つ、全安の女梅八つ、柏軒四十八、子鉄三郎九つ、女洲十七、国十四、安六つ、琴三つ、妾《せふ》春三十三、榛軒未亡人志保五十八であつた。
安政五年は蘭軒歿後第二十九年である。棠軒が九月二十四日に駿府より江戸に帰著した。事は棠軒公私略に見えてゐる。
小島氏で此年|春澳《しゆんいく》が家督相続をしたことは前に云つた如くである。
渋江氏で此年蘭門の高足であつた抽斎|全善《かねよし》が五十四歳で歿した。流行の暴瀉《ばうしや》に罹つて、八月二十九日に瞑したのである。柏軒は抽斎の病み臥してより牀《とこ》の傍《かたはら》を離れなかつた。後抽斎の未亡人五百は、当時柏軒が「目を泣き腫らし、額に青筋を出してゐた」状を記憶してゐて、屡《しば/\》人に語つたさうである。
森氏で此年枳園が将軍家茂に謁見した。其日は十二月五日であつた。
徳川家で此年の初に将軍家定が渋江抽斎と同じ病に罹り、抽斎に先《さきだ》つて薨じたのは、世の知る所である。故に年の末に森枳園を引見した将軍は家定ではなくて家茂である。枳園の寿蔵碑に誤つて家定に作つてあることは、嘗て抽斎伝に辯じて置いた。
阿部家では新主伊予守|正教《まさのり》が八月に入国した。わたくしは其|供廻《ともまはり》の誰々であつたかを知らぬが、医官中に伊沢氏の無かつたことは明である。正教の福山に著したのは八月二十九日であつたに、柏軒は二十二日に抽斎の臨終を見届け、棠軒は九月二十四日に纔《わづか》に駿府より帰つたからである。
此年棠軒二十五、妻柏二十四、女長五つ、良三つ、全安の女梅九つ、柏軒四十九、子鉄三郎十、女洲十八、国十五、安七つ、琴四つ、妾春三十四、榛軒未亡人志保五十九であつた。
安政六年は蘭軒歿後第三十年である。八月二十二日に柏軒が幕府の奥詰医師を拝し、二百俵三十人扶持を給せられた。己未の武鑑を検すれば「奥詰御医師、三十人扶持、まき丁、伊沢磐安」と記してある。亡兄榛軒の柏軒を幕府に薦めた志は此に始て酬いられたのである。
その三百七
柏軒は上《かみ》に記するが如く、安政己未に幕府の奥詰医師を拝した。躋寿館《せいじゆくわん》の講師となつてより既に八年、前将軍に謁見してより既に三年であつた。柏軒をして幕府の医官たらしめむとすることが、亡兄榛軒の素望《そばう》であつたことも、わたくしは又|上《かみ》に記した。
これに反して丙辰に始て阿部侯正弘に仕へたのは、榛軒の遺志でもなく、又柏軒自己の願ふ所でもなかつたさうである。しかし正弘は柏軒を獲た次年丁巳に、偶《たま/\》篤疾《とくしつ》に罹つて、遂に柏軒の治を受けて世を去つた。そして阿部家は伊予守|正教《まさのり》の世となつた。
渋江保さんは母にかう云ふ事を聞いた。正教の世となつてから、阿部家の一女が病んで柏軒の治を受けた。一日《あるひ》柏軒はこれを診して退き、「今日の御容態は大分宜しい」と云つた。然るに女《ぢよ》の病は程なく増悪《ぞうあく》して死に至つた。是より正教は柏軒を疎《うと》んじ、柏軒の立場は頗《すこぶる》危殆《きたい》に赴いた。恰も好し、幕府の任命が下つて、柏軒は幸にして苦境を脱することを得たと云ふのである。
此談の伝ふる所は頗《すこぶる》明確を闕いてゐる。阿部家の一女はその誰なるを詳《つまびらか》にしない。正弘の世を去つた丁巳六月十七日より柏軒の奥詰を拝した己未八月廿二日に至る間に夭した人は戊午六月五日に亡くなつた正寧の女|操子《さうこ》四歳、法諡《はふし》麗樹院があるのみである。
わたくしの此談を記するのは、柏軒の気質を証するが如きを覚ゆるからである。此談は柏軒が予後《よご》を誤つたことを伝へてゐる。予後を誤ることは豪邁なる医の免れ難い所である。気象豪邁なるときは、技術に諳錬《あんれん》してゐても、予後を説くに臨んで用意の周全を闕く。誤《あやまり》に陥り易い所以である。
柏軒は幕府に仕へて頭初より奥詰を拝した。松田氏が柏軒の多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻元冬嶺の歿後に出たのを、其重用せらるゝ一因としてゐることは既に云つた。しかし松田氏は又かう云つてゐる。幕府は医家中に於て多紀氏を重視してゐた。柏軒は幼より多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭の講筵に列してゐて、多紀氏の準門人である。それゆゑその任用せられたのは、多紀氏の余沢である。柏軒は一面多紀氏累世の余沢を被り、一面※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭歿後多紀両家の当主が皆弱冠であつたために群を抜いて立身する便を得たのだと云つてゐる。是は首肯すべき論である。
柏軒は奥詰医師に任ぜられた頃、中橋よりお玉が池に居を移したらしい。文淵堂所蔵の花天月地《くわてんげつち》に、小島成斎の柏軒に与へた書があつて、日附は九月二十二日である。そして書中には柏軒の仕宦と移居との事が併せ記してある。わたくしは此新居を以てお玉が池二六横町の家となすのである。
その三百八
柏軒は己未の歳八月二十二日に幕府の奥詰医師となつた。わたくしはその中橋よりお玉が池に移居したのを、任官と略《ほゞ》同じ頃の事と以為《おも》ふ。それは小島成斎の九月二十二日の尺牘《せきどく》に拠つて言ふのである。
「倍《ます/\》御壮健奉敬賀候。然者《しかれば》無申訳御無音|戦栗《せんりつ》之至奉存候。御引移《おんひきうつり》並御召出の御祝儀参上可仕候処、公私|※[#「聰のつくり」、8巻−207−下−8]忙《そうばう》、甚以《はなはだもつて》御疎濶|罷過《まかりすぎ》、不本懐《ふほんくわい》奉存候。此節参上可仕候所、引越《ひきこし》公私のさわぎ又々延引、重々|恐悚《きようしよう》之至奉存候。御祝物進呈仕候。不日拝謁万々賀儀可申陳候。且又机永々恩借奉感謝候。是亦面上可申上候。乍憚令閨君えも御致声奉願候。草々頓首。九月廿二日。小島五一。伊沢磐安様侍史。」
わたくしは移居と任官とが略《ほゞ》時を同じうする如く謂《おも》ふと云つた。文中「御引移並御召出」と云ふより観れば、或は移居が任官に先《さきだ》つてゐたかとも推せられる。しかし己未の武鑑に「まき丁」と記してあるのは、猶中橋の槇町を斥《さ》して言ふものの如くである。姑《しばら》く疑を存して置く。
又「引越公私のさわぎ」と云ふより観れば、成斎も亦此書を作る直前に移徙《いし》したかと推せられる。渋江保さんは当時成斎に就いて筆札を学んでゐて、成斎が柏軒の子鉄三郎を待つに、其父の仕宦前後|厚薄《こうはく》を異にしたことを記憶してゐる。成斎は幕府医官の子を遇するに、疇昔に殊なる礼を以てしたのである。渋江氏は此事を語つて、成斎は「今の神田淡路町にあつた阿部侯上屋敷内自宅の二階三室を教場として」ゐたと云ふ。是は武鑑「阿部伊予守正教」の条に「上、昌平橋内、大手より十六町」と記する屋敷である。成斎は何処へ徙《うつ》つたのであらうか。或は同じ屋敷の内の移転などであらうか。是も亦猶考ふべきである。
成斎が柏軒の机を借りて久しく還さなかつたと云ふも、故ありげな事である。恐くは尋常の什具ではなからう。長子《ちやうこ》刀自の話に、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が京都加茂神社の供物台《そなへものだい》を得て蘭軒に贈り、伝へて榛軒、柏軒、磐、津山碧山、長門の人矢島|屯《じゆん》に至つたものがあると云ふ。恐くは是であらう。
柏軒はお玉が池の新居を営むに当つて、頗る其工費を辨ずるに苦んだ。塩田|真《しん》さんの語る所は下《しも》の如くである。
「柏軒先生の家計は常に裕でなかつた。先生自己が理財に疎かつたことは勿論であるが、夫人狩谷氏も亦決して細事に意を用ゐて周到なることを得る人ではなかつた。先生は貧ならざることを欲すと雖も、奈何《いかん》ともすることが出来なかつたのである。わたくし(塩田氏)の見た所を以てすれば、家政の按排は主に側室お春さんの手裏にあつて、此女は先生をして貧甚しきに至ることを免れしめたやうである。お玉が池の新宅は、わたくしの親戚の所有の空地《くうち》を借りて建築したものであつた。其費用は種々の工夫に由つて辨じたものである。わたくしは或日先生の使に海賊橋辺の商家に往つて、金六十五両を借りた。海賊橋は今謂ふ海運橋である。わたくしは金を懐にして四日市を過ぎた。偶《たま/\》絵草紙屋の店に新板の役者絵が懸けてあつた。わたくしは好劇癖《かうげきへき》があつたので、歩を駐《とゞ》めて視た。さて二三町行つて懐を探ると、金が無かつた。わたくしは遺失したかと疑つて、踵《くびす》を旋《めぐら》して捜し索めた。しかし金は遂に見えなかつた。前《さき》に絵草紙を看た時、掏摸《すり》に奪ひ去られたのである。わたくしは已むことを得ずして家に還り、救を父楊庵に求めた。父はわたくしのために金を償《つぐの》うてくれた。金は柏軒先生が番匠某に与ふる手附金であつた。」
その三百九
わたくしは安政丁巳に柏軒がお玉が池の新居を営んだことを記して、塩田|良三《りやうさん》の途に工費を失つた話に及んだ。
此家は今川越にある安部大蔵さんが目撃して記憶してゐる。安部氏の園田|宗義《むねよし》さんに寄せた書牘《しよどく》にかう云つてある。「伊沢磐安の宅は迂生《うせい》二十歳の頃に見し所を記憶す。神田お玉が池市橋邸の東横町にて、俗に二六横町と称へし処なり。門長屋《もんながや》ありて、小身の旗本の屋敷かと覚ゆる構へなり。医師の家としては当時の風俗より視て可なり立派なるものなりし。」
わたくしは渋江抽斎伝に柏軒がお玉が池に移つて、新宅開きの宴を張つたことを記した。彼保さんの姉|水木《みき》と柏軒の女《ぢよ》安《やす》とが長歌
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