、今に迄《いた》るまで忘れることが出来ない。」

     その二百九十九

 阿部正弘は丁巳の歳に病んで治を柏軒に託し、死に至るまで蘭方医をして診せしめなかつた。柏軒も亦正弘の意を体して蘭方医の来り近づくを防いだ。柏軒は蘭方医を延《ひ》くを以て、日本医方を辱むるものとなし、国威を墜すものとなしたのである。
 柏軒の蘭方を排したのは家学を奉じたのである。しかし正弘が既に講武所に於て洋式操兵の術を伝習せしめ、又人を海外に派遣して視察せしむることを議しながら、独り西洋の医方を排したのは何故であらうか。
 わたくしは正弘の蘭方を排したのは、榛軒に聴いたのではなからうかと以為《おも》ふ。徳《めぐむ》さんの蔵する所の榛軒の上書《じやうしよ》がある。是は献芹《けんきん》と題した一小冊子で、年月日を記せぬが、文中に嘉永辛亥に書いた証拠がある。「既に一昨年御医師中え被仰出候御書付之中風土之違候と申御文面尤緊要の御格言と奉存候」の語が即是である。所謂「一昨年」は禁令の出た己酉の歳で、「風土の違」は令中「風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候」云々《しか/″\》の句である。上書は此の如く禁令の出た後に作られてはゐるが、榛軒の進言は恐くは此上書に始まつたのではなからう。或は榛軒は前に進言する所があつて、己酉の禁令は此に縁《よ》つて発せられたかも知れぬのである。
 若し正弘が榛軒に聴いたとすると、榛軒の説は禁令の前後に差異があるべきではないから、禁令後の上書に就いて正弘の前に聞いた所の奈何《いかん》を窺ふことが出来る筈である。
 わたくしは此に榛軒の蘭方を排する論を一顧しようとおもふ。人は或は昔日の漢方医の固陋の言は聞くに足らずとなすであらう。しかし漢医方の廃れ、洋医方の行はるるに至つたのは、一の文化の争で、其経過には必ずしも一顧の価がないことはなからう。
 榛軒は伊勢安斎と桂川|桂嶼《けいしよ》とに依傍《いばう》して立言した。安斎は其随筆中に云つた。蘭医は五十年後に大に用ゐらるるであらう。それは快速と新奇とを好む人情に投ずるからであると云つた。桂嶼は嘗て榛軒に告げて云つた。西洋の学者及日本往時の洋学者は精細で、日本今時の洋学者は粗漏である。彼は真に西洋の書を読み、此は僅に飜訳書を読むが故である。真の蘭学者は和漢の学力を以て蘭書に臨まなくてはならぬと云つた。榛軒は蘭方の快速と新奇とに惑されむことを惧れ、又飜訳書を読んで自ら足れりとする粗漏なる学者に誤られむことを憂へた。
「川路聖謨之生涯」に正弘、小栗|忠順《たゞゆき》、川路聖謨《かはぢとしあき》等の説として、洋医は経験乏しく、且西洋に於る此学の真訣《しんけつ》未だ伝はらざるが故に洋医方は信じ難しと云つてあるのは、榛軒が引く所の桂嶼の説と全く同じである。
 しかし榛軒は啻《たゞ》に一知半解の洋医方を排したのみではなく、又洋医方そのものをも排した。

     その三百

 わたくしは阿部正弘が蘭医方を排したのは榛軒に聴いたものらしいと謂つて、榛軒の上書を引いた。榛軒は先づ桂川桂嶼と所見を同じうして、晩出蘭学者の飜訳書に由つて彼邦医方の一隅を窺ひ、膚浅《ふせん》粗漏を免れざるを刺《そし》つた。しかし榛軒の言《こと》は此に止まらない。榛軒は蘭医方そのものをも排してゐる。
 榛軒は西洋諸国を以て「天度地気の中正を得ざる国」となし、随つて彼の「人情も中正を得」ざるものとなした。それゆゑ其医方を「中正を得たる皇国」に施すことを欲せなかつた。今言《きんげん》を以て言へば、天度地気《てんどちき》はクリマである。風土である。人情は民性である。医薬の風土民性に従つて相異なるべきは、実に榛軒の言《こと》の如くである。しかしそれは微細なるアンヂカシヨンの差である。適応の差である。憾むらくは榛軒は此がために彼の医学の全体を排せむとした。
 正弘の発した禁令に、「風土も違候事に付(中略)蘭方相用候儀御制禁仰出され候」と云つてあるのは、榛軒の此説と符合する。
 榛軒は進んで蘭医方の三弊事をあげてゐる。一は解剖、二は薬方の酷烈、三は種痘である。
 榛軒は内景を知ることを要せずとは云はなかつた。蘭方医は内景を知ることを過重すると謂《おも》つた。「原来人身と申者(中略)陰陽二気の神機と申者にて生活仕候。」故に「神機も無き死人の解体」は過重すべきではないと云ふのである。神機説はヰタリスムである。ヰタリスムは独り素問に有るのみではなく、西洋古代の医学にも亦有つた。自然科学の発展はヰタリスムを打破したのである。
 榛軒は解剖することを非としたのではなく、寧《むしろ》屡《しば/\》解剖することを非とした。「一度解体仕候而内景の理を究め候上、実物実地を得候而、書に述、図に伝候得者、其上にては度々解体にも及申間敷」と云つた。是は内景が一剖観の窮め尽すべきでないことを思はなかつたのである。又外科の屍《しかばね》に就いて錬習すべきをも思はなかつたのである。
 しかし榛軒の解剖を悪《にく》む情には尊敬すべきものがある。「夫刑は罪の大小に従て夫々に処せらるるなり。既に其刑に処せらるれば、屍は無罪同然なり。夫故非人に被命、屍を暴露せぬ様にせさせたまふならはしなり。其屍体を再割解して※[#「くさかんむり/韲」、第4水準2−87−23]粉の如くなせば、是刑を重ぬる道理にて、仁人君子の為ざる所なり。其の為に忍びざることを(なし、)魚鳥を屠候同様之心得にて、嬉々談笑、公然と人天を憚らざる所行(あるが故に、)其不仁の悪習自然と平日の所行にも推移り染著す」云々。屠者には忍人が多い。解剖家外科医の此弊に陥らざることを得るのは、別に修養する所があつて、始て能く然るのである。要するに医の解剖するは已むことを得ざるに出づる。榛軒の説の如きは、藹然《あいぜん》たる仁人の言《こと》である。決して目するに固陋を以てすべきではない。
 榛軒の蘭医薬方の酷烈を非難し、又種痘を非難したことは、下《しも》に抄する如くである。

     その三百一

 榛軒は蘭医方の三弊事を挙げた。其一は解剖で、榛軒が解剖重んずるに足らずとなし、屡《しば/\》解剖することを要せずとなしたのは過つてゐる。しかしその解剖を悪《にく》む情には尊敬すべき所がある。
 其二は蘭医方の酷烈を非難するのであつた。榛軒は蘭方医「天に逆ふる猛烈酷毒之薬を用」ゐると云つた。其意「天命は実に人工の得て奪ふべからざる理」にして、「越人能く死人を生すにあらず、此れ自ら生くべき者、越人能これを起たしむ」、独り蘭方医は敢て天に逆《さか》はむとすと云ふにあつた。然らばその天と云ひ、天命と云ふは、何を以て知るか。「脈理を以て予め死を知り、天命の及ばざるを知」ると云ふのであつた。
 しかし洋医方の診断学も亦心臓機能を等間視してはゐない。洋薬の漢薬に比して強烈なのは、彼は製煉物を用ゐ、此は天産物を用ゐる差にあつて、強烈なれば其量を微にする。榛軒の非難は洋医方を知らざるに坐するものであつた。
 其三は種痘を非難するのであつた。榛軒は痘瘡《とうさう》を以て先天の「胎毒」が天行の「時気」に感触して発するものとなした。胎毒とは性欲の結果である。胎毒は外発すべきものである。しかしその外発は時を得なくてはならない。若し「時をまたず、人工にて無理に発動」せしむるときは、毒は「旧に依て蟄伏」する。種痘は「一時苟且」の術に過ぎぬと云ふのであつた。
 榛軒痘瘡の説は、池田錦橋の「天行之※[#「さんずい+診のつくり」、8巻−195−下−14]気、与蘊蔵之遺毒、相触激而発」と云ふに近似してゐる。そしてその胎毒遺毒を視ることは重く、時気|※[#「さんずい+診のつくり」、8巻−195−下−16]気《てんき》を視ることは軽かつた。痘瘡は主として外《ほか》より入るものでなく、主として内より発するものとして視られた。それゆゑに種痘の天然痘より微なるを見て、余毒の遺残せむことを惧《おそ》れた。

 此の如き見解は固より近時闡明せられた染疫《せんえき》免疫の事実と相容れない。しかし榛軒は種痘を悪むべしとなすよりは、寧種痘の新奇を畏《おそ》るべしとなしたのである。そして上《かみ》に引いた伊勢安斎の所見と同じく、西洋人の此新奇を以て衒鬻《げんいく》し、邦人を欺瞞せむことを慮《おもんぱか》つたのである。
 榛軒は云つた。「人間界上下賢愚一同に、子孫を愛惜せざるはなく、痘疹を憂懼せざるはなし。其の愛惜憂懼の心を、後患はしらず、一時苟且の種痘にて、掃ふがごとく忘れたるがごとくせしめば、愈(中略)蛮夷の法を慕ふに至らむ。(中略)禍乱は凡愚の下民より生ずる理にて、既に清朝下民の阿片を嗜み、一統心酔仕候より、道光の変乱を招き生じ申候。(中略。)下民の異教を信じ乱を生じ候事は、和漢の歴史に昭々明々と之あり。」「蛮夷は僻遠の地に在て(中略)産物具全せず(中略)、天下融通交易と号し、外国を伺ふなど、飽かざれば止まずとも申候。」「往古耶蘇の天主教を以て愚民を誘引仕候首初は、先づ婦人小児よりなづけ、世に希なる沙糖を嘗させ、目に見なれざる彩帛を与え、婦人小児の歓心を得て、扨其夫其親の意を迎へ(中略)、千百人の心をして煽動変乱せしむ。是蛮夷の他の邦を伺ひ奪ふ第一義の計策と仕候由(中略)、大害の成るに至りては、何如ともせむ方なき理に御座候。」「二百年来諸蛮を禁止したまひし神智、今日に至り実に申もおろかなる事にて、敬服仕候事に奉存候。」榛軒はその鎖国攘夷論者たる立脚地よりして、これを小にしては種痘を排し、これを大にして洋医方を排した。
 若し阿部正弘が榛軒に聴いたとすると、それは榛軒の説が保守主義者たる正弘の旨に称《かな》つたのであらう。正弘が政治に於て既に已むことを得ずして鎖国説を棄てつつも、医方に於て猶榛軒に聴いたのは、其思想の根柢が保守にあつたからであらう。

     その三百二

 阿部正弘が丁巳の歳に病んだ時、柏軒は死を決して単独にこれが治療に任じた。既にして正弘は逝《ゆ》いた。そして柏軒は何の咎《とがめ》をも受くることなく、只奥医師より表医師に貶《へん》せられたのみであつた。此|貶黜《へんちつ》は阿部家の医官が其主の病を治して、主の館《くわん》を捐《す》つるに会ふごとに、例として行はれたものださうである。果して然らば柏軒は真に何の咎をも受けなかつたのである。
 正弘の病は当時の社会にあつては一大事件であつた。是は正弘が外交の難局に当つて、天下の目を属《ぞく》する所となつてゐたからである。水戸老公|斉昭《なりあき》は側用人《そばようにん》安島《あじま》弥次郎に与ふる書に、「何を申も夷狄は迫り居り候へば、勢州は大切の人」と云ひ、福井侯|慶永《よしなが》も亦、「唯今彼人世を早ふせば、天下の勢も如何に変り行ならむか、公私につき憂はしき事の限にぞある」と云つたことが、用人中根|靱負《ゆきえ》の記に見えてゐる。
 それゆゑ世上に正弘の病に関して、種々の流言蜚語が行はれたのは怪むに足らない。諸書の伝ふる所は渡辺氏の「阿部正弘事蹟」に列記してあるが、要は正弘が政局に艱《なや》み、酒色を縦《ほしい》ままにして自ら遣《や》つたと云ふにある。わたくしは此に一例として徳川斉昭の言《こと》を引く。「中納言咄にては、御城坊主抔は十五の新妾出来候故云云、酒も登城前より二升位づゝ用候よし云々、(中略、)沙汰には妾も数人有之抔と承り候、(中略、)全右等は人の悪口と存候へ共、衰へ候儀は無相違相聞え申候。」是は上《かみ》に引いた安島に与ふる書に見えてゐる。中納言は当主|慶篤《よしあつ》である。
 しかし正弘が酒色を縦まゝにしたと云ふは、斉昭の云つた如く「人の悪口」であつた。渋江保さんの話に、其父抽斎は阿部侯惑溺の説は訛伝《くわでん》だと云つたさうである。保さんは母に聞いたのである。渡辺氏の如きは反証を挙げて辯駁してゐる。
 わたくしは既に云つた如く、正弘の病を癌であつたと看てゐる。癌はエクスセスに因するものではない。
 当時の流言は啻《たゞ》に正弘の病を云云《うんぬん》したのみならず、又其死を云云した
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