。勿堂は阿波の農家の子で学を好み、一斎の門下にあつては顔淵の目《もく》があつた。勿堂は一斎が「勿視勿聴勿言勿動」に取つて命じたのである。此より後一斎は唯月に一たび松平邸に来つて経を講ずるのみであつた。道夫は既に学庸を一斎に聴いてゐたので、論孟はこれを勿堂に聴いた。当時道夫は父と共に本所三目の松平家中屋敷に住み、勿堂は鍛冶橋内の上屋敷にゐたので、道夫は本所より神田へ通つて学んだ。道夫は又同時に横網町の朝川善庵、薬研堀の萩原|緑野《りよくや》、引舟通の大橋|訥庵《とつあん》にも従遊した。此の如くにして十七歳に至つた時、父は道夫に家業を継ぐことを命じたのである。道夫の母の弟太田兵三郎は小此木伴七、鵜川庄三と共に江戸の阿部邸にあつて勘定奉行を勤めてゐた。

     その二百九十二

 此年安政乙卯に、頼氏では山陽の未亡人|里恵《りゑ》が歿した。年五十九である。後藤松陰の墓表に、里恵が修して梨影《りえい》に作つてある。初めわたくしは松陰が文を撰ぶに当つて、文字を雅馴《がじゆん》ならしめむとして改めたものかと疑つた。後山陽の書牘を見るに、梨影の二字は山陽が早く用ゐてゐた。
 此年乙卯に榛門の柴田常庵の同族、三十間堀の洛南柴田元春が歿した。わたくしは今|仁杉英《にすぎえい》さんの教を受けて、稍幕医柴田氏の事蹟を詳にすることを得たから、此に其概略を補叙しようとおもふ。
 江戸の唖科《あくわ》柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖《なうそ》、名は直教《ちよくけう》と云つた。直教の子が直儀《ちよくぎ》、直儀の子が賢《けん》、賢の二子が元泰《げんたい》元徳《げんとく》である。
 元泰、名は直為《ちよくゐ》、字《あざな》は子温《しをん》、東皐《とうかう》と号した。曾祖父直教が早く寛永貞享間に名を成し、直為に至つて幕府に仕へた。林述斎の墓誌に、「遂以天明四年、賜謁大廷、尋而執技出入城中者数年、至享和元年、擢入西城医院、叙法眼位」と云つてある。述斎の家は此人の病家であつた。元泰直為は文化六年十一月二十四日七十二歳で歿した。
 元泰直為の後を襲いだものが元岱直賢《げんたいちよくけん》である。字《あざな》は英卿《えいけい》又|可久《かきう》、竹渓と号した。鞠翁《きくをう》は其致仕後の称である。林復斎が其官歴を叙してゐる。「文化五年九月襲家秩。為西※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]侍医。別賜二百苞。十二月叙法眼。会文恭大君有榴房之福。群公子更不予。輒召君調。則多奏効。是以恩眷殊渥。天保十年十一月告老。奉職凡三十二年。仍賜二百苞為養老資。致仕之後。特旨時朝内廷。異数也。(中略。)弘化二年十月十四日即世。距生安永六年九月廿一日。享寿六十有九。」多子の将軍文恭公は徳川家斉である。鞠翁は致仕後には画を作つたことが墓誌に見えてゐる。復斎の家は元岱の病家であつた。
 元岱直賢の後を襲いだものが直養《ちよくやう》である。直賢に素《もと》直道《ちよくだう》、直温《ちよくをん》の二子があつて、其次の第三子が直養である。長直道は早世し、仲直温は「蔭仕西※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]侍医、叙法眼、又先歿」と云つてある。直養の嗣は、仁杉氏の言《こと》に拠るに、又元泰と称したらしい。以上が麹町の柴田系である。
 元泰直為の弟元徳に孫|芸庵《うんあん》があつた。是を木挽町の柴田とする。芸庵の妹が清川玄道に適《ゆ》いた。
 芸庵の後を襲いだものが榛門の常庵である。常庵に養子|長川《ちやうせん》があつたが、不幸にして早世したので、芸庵の第二子、常庵の弟陽庵が長川の後を承けた。維新の後忠平と改称して骨董店を開いたのは此陽庵である。忠平の子は鉛太《えんた》である。以上が木挽町の柴田系である。
 元岱直賢の弟に元春正雄《げんしゆんまさを》があつて分家した。正雄、字《あざな》は君偉《くんゐ》、号は洛南である。大槻磐渓の墓誌にかう云つてある。「寛政十年四月十五日生于江戸銀座街。幼而学於井四明翁。文政二年卜居於卅間濠。天保十四年六月擢為医員。賜俸三十口。七月進侍医。并官禄四百苞。十二月陞法眼。歴仕二朝十三年。安政二年十一月九日終於家。享年五十八。(節録。)」磐渓は此人と同じく井門《せいもん》より出でた。元春は嘗て傷寒論排簡を著し、又詩を賦し、墨竹を作つた。
 元春正雄の後を襲いだものが元美正美《げんびせいび》である。正美、字は子済《しせい》、後元春の称を襲いだ。正美の養嗣子元春は、実は正美の弟道順の子である。以上が卅間堀の柴田系である。
 此年棠軒二十二、妻柏二十一、女長二つ、全安の女梅六つ、柏軒並妻俊四十六、妾春三十一、男鉄三郎七つ、女洲十五、国十二、安四つ、琴一つであつた。蘭軒の女長は四十二、榛軒の未亡人志保は五十六になつた。琴は慶応二年九月二日に夭折した。

     その二百九十三

 安政三年は蘭軒歿後第二十七年である。二月二日に蘭軒の女長が四十三歳で歿した。蘭軒の女は天津《てつ》、智貌《ちばう》、長《ちやう》、順《じゆん》、万知《まち》の五人で、長は第三女であつた。長の夫は棠軒の親類書に「御先手井手内蔵組与力井戸応助」と云つてある。長の一子勘一郎は同じ親類書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。長の二女は同書に「陸軍奉行並組別手組出役井戸源三郎支配関根鉄助妻」と云ひ、又「娘一人父応助手前罷在候」と云つてある。
 長は谷中正運寺に葬られた。先霊名録に「究竟室妙等大姉、葬于谷中正運寺」と云つてある。按ずるに正運寺は井戸氏の菩提所であつたのだらう。
 柏軒が阿部侯の医官となつたのは此年であるらしい。歴世略伝に「安政丙辰阿部公侍医」と云つてある。伊勢守正弘三十八歳の時である。しかし任命を徴すべき文書等は一も存してゐない。
 只良子刀自所蔵の文書中に柏軒が阿部家に於ける「初番入《はつばんいり》」の記及当直日割があつた。わたくしはこれを抄して置いたが、今其冊子を人に借した。初番入の記には年次もなく干支もなかつたことを記憶する。しかし少くも月日は知ることを得られようとおもふ。
 伊沢氏よりは既に棠軒が入つて阿部家の医官となつてゐる。然るに今又柏軒を徴《め》すに至つたのは、正弘が治療の老手を得むと欲したものか。
 柏軒の妻俊の遺文を検するに、此年五月十八日に富岡《とみがをか》永代寺に詣でた記がある。永代寺には成田山不動尊の開帳があつた。武江年表に拠るに開帳は三月二十日より五月二十日に至る間であつたらしい。「同(三月)廿日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於て開帳」と云つてある。丙辰は三月小、四月大、五月小であつた。俊の詣でたのは閉帳二日前であつた。記中に棠軒の妻柏の妊娠の事が見えてゐて、俊等が開帳の初より参詣を志してゐながら、次第に遅れた事が言つてある。
 八月九日に棠軒の二女|良《よし》が生れた。現存してゐる良子刀自である。棠軒公私略に「八月九日朝、女子出生、名良」と云つてある。
 此八月は大風雨のあつた月である。公私略に「同月(八月)廿五日、東都大風雨、且暴潮、損処甚多」と云つてある。武江年表に云く。「八月廿三日微雨、廿四日廿五日続て微雨、廿五日暮て次第に降しきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて大小の船を覆し或は岸に打上、石垣を損じ、洪波陸へ溢漲して家屋を傷ふ。」半蔵門|渡櫓《わたりやぐら》、築地西本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所|霊山寺《りやうせんじ》本堂が壊《くづ》れ、永代橋、大川橋が損じた。
 蘭軒医談の始て刻せられたのは此月である。森枳園の序にかう云つてある。「余以天保間。遊于相陽。(中略。)偶探書笈。得幼時侍蘭軒先生所筆記医談若干条。遂録成冊子。未遑校字。抛在架中。近日有頻請伝写者。因訂訛芟複。活字刷印以貽之。併示同人云。安政丙辰仲秋。書於江戸城北駒米里華佗巷之温知薬室。福山森立之。」署名の傍《かたはら》に「立之」「竹窓主人」の二印がある。枳園は一に竹窓とも号したと見える。駒米里《くべいり》は駒込、華佗巷《くわだこう》は片町であらう。時に枳園五十歳であつた。蘭軒医談一巻は「伊沢氏酌源堂図書記」の印ある刊本と、「森氏開万冊府之記」の印ある稿本と、並に皆富士川氏が蔵してゐる。

     その二百九十四

 わたくしは安政丙辰に蘭軒医談の校刻せられたことを記した。此書は所謂随筆の体を成してゐて、所載の物類の範囲は頗る博大である。わたくしは読過の際に一事の目を惹くに会した。それは楸《しう》は何の木なるかと云ふ問題である。
 楸は詩人慣用の字である。「松楸」の語の如きは、彼「松栢」の語と同じく、諸家の集に累見してゐる。然るにわたくしは楸の何の木なるかを審《つまびらか》にしない。
 蘭軒医談に楸字の異説がある。しかしそれがわたくしの目を惹いたには自ら来由がある。
 数年前にわたくしは亀田|鵬斎《ぼうさい》の書幅を獲た。鵬斎は韓昌黎の詩を書してゐる。「幾歳生成為大樹。一朝纏繞困長藤。誰人与脱青蘿※[#「巾+皮」、第3水準1−84−9]。看吐高花万万層。」わたくしはこれを壁上に掲ぐること数日間であつた。此詩はわたくしの未知の詩であつた。大樹の何の木なるかも亦わたくしの未だ知らざる所であつた。
 しかし此詩はわたくしに奇なる感を作《おこ》さしめた。それは大樹は唐朝にして長藤は宦官だと謂《おも》つたのである。平生わたくしは詩を読んで強ひて寓意を尋窮することを好まない。それゆゑ三百篇の註を始として、杜詩の註等に至つても、註家の言《こと》に附会の痕あるに逢ふ毎に、わたくしは数《しば/″\》巻を抛つて読むことを廃めた。独り韓の此詩はわたくしをして唐代宦官の禍を思はしめて已まなかつた。
 わたくしは終に此詩を諳記した。しかし未だ謂ふ所の何の木なるを知らなかつた。一日《あるひ》わたくしは、ふとこれを知らむことを欲して、二三の類書を閲《けみ》した。そして五|車韻瑞《しやゐんずゐ》中に於て此詩を見た。憾むらくは引く所は題に及ばぬので、わたくしは遂に大樹の何の木なるを知ることが出来なかつた。
 わたくしは人に昌黎集を借りて閲した。巻九《けんのく》に「楸樹」の詩三首があつて、鵬斎の書する所は其一であつた。わたくしは進んで楸の何の木なるかを討《たづ》ねた。
 此問題は頗《すこぶる》困難である。説文に拠れば楸は梓《し》である。爾雅を検すれば、※[#「稻」の「禾」に代えて「木」、8巻−184−下−2]《たう》、※[#「木+臾」、8巻−184−下−2]《ゆ》、※[#「木+懷のつくり」、8巻−184−下−2]《くわい》、槐《くわい》、榎《か》、楸《しう》、椅《い》、梓《し》等が皆相類したものらしく、此数者は専門家でなくては辨識し難い。
 今蘭軒医談を閲するに、「楸はあかめがしはなり」と云つてある。そして辞書には古のあづさが即今のあかめがしはだと云つてゐる。わたくしは此に至つて稍答解の端緒を得たるが如き思をなした。それは「楸、古言あづさ、今言あかめがしは」となるからである。
 しかし自然の植物が果して此の如くであらうか。又若し此の如くならば、梓は何の木であらうか。わたくしは植物学の書に就いて捜索した。一、楸はカタルパ、ブンゲイである。二、あづさはカタルパ、ケンプフエリ、きささげである。(以上紫※[#「くさかんむり/威」、第3水準1−91−11]科。)三、あかめがしははマルロツス、ヤポニクスである。(大戟科。)是に於て切角の発明が四花八裂をなしてしまつた。そして梓の何の木なるかは容易に検出せられなかつた。畢竟自然学上の問題は机上に於て解決せらるべきものではない。
 是に於てわたくしは去つて牧野富太郎さんを敲いた。

     その二百九十五

 わたくしは蘭軒医談楸字の説より発足してラビリントスの裏《うち》に入り、身を脱することを得ざるに至り、救を牧野氏に求めた。幸に牧野氏はわたくしを教ふる労を慳《をし》まなかつた。
「一、楸は本草家が尋常きささげとしてゐる。カタルパ属の木である。博物館内にある。」わたく
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