、生ながら致すことを得たのである。しかし志保の生父の誰なるかは、遂に知ることが出来なかつた。
分家伊沢口碑の伝ふる所は此の如くである。
小島春庵の入京は事実の徴すべきものがある。わたくしは榛軒の前妻の伊沢氏にゐた間の最後の消息と、榛軒が志保を識つた時期とに本づいて、其|再娶《さいしゆ》を此年天保三年の事と推定した。此推定にして誤らぬならば、後十年天保十三年に小島宝素は日光准后宮舜仁法親王に扈随して京都に往つたのである。宝素は秋九月三日に江戸を発し、十二月十八日に江戸へ還つた。
宝素入京の事実は、初めこれを長井金風さんに聞き、「日本博物学年表」を閲して其年を知り、後に宝素の裔小島|杲《かう》一さんに乞うて小島氏の由緒書を借抄することを得、終に其月日をも詳《つまびらか》にするに至つたのである。
宝素が友人の妻のために、遠く摂州の慈姑を生致《せいち》したのは、伝ふべき佳話である。嶺南の茘枝《れいし》は帝王の驕奢を語り、摂州の慈姑は友朋の情誼を語る。
志保の獲んと欲した所の二物は、其一が至つて、其二が至らなかつた。その至らなかつたものは志保が生父の名である。此志保の生父は抑《そも/\》誰であらうか。
その二百三
蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の母は、京都の典薬頭の家に仕へてゐて、其嗣子の子を生んだと云ふことであつた。京都の典薬頭の家は唯一の錦小路家あるのみである。志保の生年を寛政十二年だとすると、わたくしは寛政十一年より十二年に至る間の錦小路家の家族を検せなくてはならない。
わたくしは錦小路家の系譜を有せない。しかし諸家知譜拙記《しよけちふせつき》と年々の雲上明鑑《うんしやうめいかん》とに徴して其大概を知ることが出来る。
寛政十一年の雲上明鑑には「丹家、錦小路三位頼理卿、三十三、同従三位(下闕)」と記してある。当主|頼理《よりよし》は三十三歳で嫡子が無い。後に頼理の家を継ぐものは頼易《よりをさ》であるが、頼易は享和三年生で、此時は未だ生れてゐなかつたのである。
わたくしは或は口碑が若主人を嫡子と錯《あやま》つたので、別に致仕の老主人があつたのではないかと疑つた。しかし知譜拙記に拠るに、頼理の父|頼尚《よりひさ》は寛政九年十月八日に卒した。志保の母が妊娠した時には、頼理には父もなく子もなかつたのである。但《たゞ》頼尚の年齢には疑がある。知譜拙記には「寛政九、十、八薨、五十五」と記してあるが、明和、安永、天明より寛政の初年に至る雲上明鑑、雲上明覧等の書を閲《けみ》すれば、寛政九年五十五歳は少《わか》きに失してゐるらしい。右の諸書を参照すれば、頼尚は寛政九年六十三歳であつた筈である。頼尚の室は、拙記に拠るに、北小路|光香《みつか》の女《ぢよ》、日野|資枝《すけえだ》の養女で、即頼理の母である。口碑に先妻後妻云云の事があつたから、次《ついで》に附記して置く。
要するに志保の生父を錦小路家に求むることは徒労なるが如くである。然らば去りて何れの処に向ふべきであらうか。わたくしは未だ其|鍼路《しんろ》を尋ぬることを得ぬので、姑《しばら》く此研究を中止する。
小島宝素は志保の生後四十三年に其地に就いて求めたのに、何の得る所も無かつた。今志保の生後百十余年にして、これを蠧冊《とさつ》の中に求めむは、その難かるべきこと固《もとより》である。
榛軒の家には此年壬辰に、前記以外に事の記するに足るものが無い。試に榛軒詩存に就いて、年号干支あるものを求むるに只榛軒が此秋|問津館《もんしんくわん》にあつて詩を賦したことを知るのみである。此「天保三壬辰秋日問津館集」の七律に「経験奇方嚢裏満、校讐古策案頭多」の聯がある。又結句の註に、「主人近日有城中卜居之挙」の語がある。是に由つて観れば、問津館の主人は蘭軒父子と同嗜なる医家で、壬辰の歳に江戸の城外より市中に移り住んだものと見える。
此年市野氏で光徳が家督した。迷庵|光彦《くわうげん》の後、光寿を経て光徳に至つたのだから、迷庵より第三世である。
頼氏では九月二十三日に山陽が五十三歳で歿した。門田《もんでん》朴斎の「書駒夢応人乗鶴、附驥情孤歳在辰」に、壬辰の辰字が点出せられてゐる。山陽の事蹟は近時諸家の討窮して余蘊なき所である。惟《たゞ》其臨終の事に至つては、わたくしの敢て言はむと欲する所のもの一二がある。
その二百四
先づ江木|鰐水《がくすゐ》撰の行状を読むに、頼山陽の死を叙して下《しも》の語を成してゐる。「天保元年庚寅。患胸痛。久而愈。三年壬辰六月十二日。忽発咳嗽喀血。(中略。)時方著日本政記。乃日夜勉強構稿。曰我必欲成之而入地。及秋疾益劇。(中略。)自始病禁酒不飲。而客至。為設筵。談笑自若。病既革。曰我死方逼矣。然猶著眼鏡。手政記。刪潤不止。忽顧左右曰。且勿喧。我将仮寐。乃閣筆。不脱眼鏡而瞑。就撫之。則已逝矣。」森田節斎は書を鰐水に与へて云つた。「聞之其内子小石氏及牧信侯。云晋戈所状。手政記。不脱眼鏡而逝。侍病牀。未嘗見此事。」鰐水は答へて云つた。「先師疾病。手政記。不脱眼鏡而逝。是石川君達。侍病牀所見。不可有誤。将質之君達。」
山陽が庚寅より胸疾があつて、此年壬辰六月十二日より喀血したことには、誰も異議を挾《さしはさ》むことは出来ない。是は山陽が自ら語つてゐるからである。その小野泉蔵に与ふる壬辰八月十四日の書に曰く。「小子も六月十二日より発症咳血也。初は不咳候へども、去臘西方より上候時より、疫も痢も直れども咳嗽而已のこり、烟草など喉に行当候様に存候事、此春夏に及び、依然作輟、到底見此症候。如痰塊之血五六日ほど出、漸々に収り、十五六日目又一度、七月二十五日に大発、吐赤沫候。」又山陽が最後に手を政記に下したことも争はれない。同じ書に曰く。「彼国朝政記未落成だけが残念故、それに昼夜かゝり、生前に整頓いたし置度候。」
剰す所は只「不脱眼鏡而瞑」の一条である。是は鰐水が始て言つた。節斎は小石《こいし》氏|里恵《りゑ》と百峰牧善助とを証人に立てて此事なしと云つた。鰐水は石川|君達《くんたつ》が見たと答へた。
此争の児戯に類することは勿論である。何故と云ふに、原来《ぐわんらい》此の如き語は必ずしも字の如くに解せなくても好いのである。例之《たとへ》ば「手不釈巻」の語の如きは、常に見る所である。是は書を読んで倦まざるを謂ふに過ぎない。誰も絶待に手から書巻を放たぬ事とは解せぬのである。山陽が最後に手を政記に下して、「それに昼夜かゝり、生前に整頓」しようとした以上は、「猶著眼鏡、手政記、刪潤不止、(中略、)乃閣筆、不脱眼鏡而瞑」と書するも或は妨《さまたげ》なからう。その偶《たま/\》物議を生じたのは、文が臨終の事を記するものたるが故である。
わたくしは山陽が絶息の刹那に、其面上に眼鏡を装つてゐたか否かを争ふことを欲せない。わたくしは惟《たゞ》正確なる山陽終焉の記を得むと欲する。そしてこれを得んと欲するがために、今一層当時のテモアン、オキユレエルたる里恵と石川牧の二生との観察を精査せむことを欲する。
江木森田の争には、臨終の一問題に於て、江木が最後の語を保有した。その「不脱眼鏡而瞑」は、今日に迄《いた》るまで、動すべからざるものとなつてゐる。然るに江木も森田も目撃者では無い。目撃者たる里恵若くは石川若くは牧は、果して何事をも伝へてをらぬか。是がわたくしの当《まさ》に討究すべき所である。
その二百五
江木|鰐水《がくすゐ》は頼山陽を状したが、山陽が歿した時|傍《かたはら》にあつたものでは無い。それゆゑわたくしは傍にあつたものの言《こと》を聞かむことを欲する。就中《なかんづく》わたくしの以て傾聴すべしとなすものは小石氏|里恵《りゑ》の言《こと》である。
江木森田二生の辨難の文を閲《けみ》するに、森田節斎は里恵の言《こと》に拠つて江木の文中山陽の終焉を叙する一段を駁してゐる。森田にして錯《あやま》らざる限は、里恵は山陽が眼鏡を著けて政記を刪定し、筆を閣《さしお》き、眼鏡をば脱せずして逝いたと云ふことを否認してゐたやうである。
然るに晩出の森田、わたくしの亡友思軒の文に一の錯誤がある。思軒はかう云つてゐる。「節斎の書には鰐水の不脱眼鏡而瞑を駁して、決して此事無しといへり。然れども鰐水は現に之を小石氏に聞きたりといへば、行状の言を信とせざるべからず。」鰐水は小石氏に聞いたとは云はない。石川|君達《くんたつ》に聞いたと云つたのである。里恵は原告節斎に有利なる証言をなしたのに、思軒は誤つて被告鰐水に有利なる証言をなしたものとした。
推するに是は思軒の記憶の誤、若くは筆写の誤であらう。わたくしは亡友の文疵《ぶんし》を扞《あば》くに意あるものではない。わたくしは今も猶思軒の文を愛好してゐる。わたくしは只里恵がいかに山陽の終焉を観察したかを明にせむと欲するが故に、已むことを得ずしてこれに言及したに過ぎない。
里恵は行状中「不脱眼鏡而瞑」の段を否認したらしい。しかし其|言《こと》は消極的で、しかも後人は間接に節斎の口よりこれを聞くのである。若し此に積極的言明があつて、直接に里恵に由つて発表せられてゐるとしたなら、その傾聴するに足ることは何人《なにひと》と雖も首肯すべきであらう。
然るに此の如き里恵の言明は儼存してゐる。人の珍蔵する所の文書でもなく、又僻書でもない。田能村竹田の屠赤瑣々録《とせきさゝろく》中の里恵の書牘である。
わたくしは前《さき》に里恵の山陽に嫁した年を言ふに当つて、既に一たびこれを引いた。そして今再びこれを引いて煩を憚らない。わたくしは敢て貴重なるものを平凡なるものの裏《うち》より索《もと》め出さうとするのである。
書牘は此年壬辰閏十一月二十五日に作られたものである。即ち山陽歿後第九十一日である。里恵はこれを赤間関《あかまがせき》の秋水広江※[#「金+庸」、第3水準1−93−36]《しうすゐひろえよう》と其妻とに寄せた。
わたくしは今全文を此に引くことをなさない。何故と云ふに、屠赤瑣々録は広く世に行はれてゐる書で、何人も容易に検することが出来るからである。此には山陽終焉の記を抄するに止める。そして原文の誤字、仮名違の如きは、特に訂正して読み易きに従はしめる。是は文書の真形を伝へむがために写すのでなく、既に世に行はれてゐる文書の内容を検せむがために引くのだからである。
その二百六
「一筆申上為参候。(中略。)扨|久太郎《ひさたらう》事此六月十二日よりふと大病に取あひ、誠にはじめは、ちも誠に少々にて候へども、新宮《しんぐう》にもけしからぬむづかしく申候。久太郎もかくごを致し、私どもにもつね/″\申して、ゆゐごんも其節より申おかれて候やうな事にて、かくても何分と申、くすりをすゝめ、先々天だう次第と自分も申ゐられ候。六月十三日より、かねて一両年心がけのちよじゆつども、いまださうかうまゝにて、夫《それ》を塾中にせき五郎子ゐられ、一人にまかせ候てかかせ、又自身がなほし候てうつさせ、日本せいきと申物に候、又なほし、其間に詩文又だいばつ、みなみなはんになり候やうに、さつぱりとしらべ申候。右せきも九月廿三日迄、ばつ文迄出来上り候。廿三日夕七つ前迄、五郎子かゝりうつし候、夫を又見申候て安心いたし、半時たゝぬ内ふし被申候所、私むねをさすり居候。うしろにゐるは五郎かと申、もはや夫きりにて候。くれ六つどきに候。」
是が頼山陽の病初より死に至るまでの事実である。終始病牀に侍してゐた小石氏里恵は此の如くに観察したのである。
山陽は此年壬辰六月十二日に始て喀血し、翌十三日より著述を整理することに著手し、関五郎をして専《もつぱら》これに任ぜしめ、九月二十三日申刻に至つて功を竣《を》へた。その主として力を費したものは日本政記で、旁《かたはら》詩文題跋に及んだ。関五郎は稿本を師の前に堆積した。山陽はこれを見て心を安んじ、未だ半時ならぬに横臥した。里恵は其胸を撫でてゐた。山陽は里恵に、「背後《うしろ》にゐるのは五郎か」と云つた。そして死んだ。時に酉刻であ
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