た。即ち霧渓二代瑞仙|直郷《なほさと》、又の名は晋《しん》である。
霧渓はいかにして池田宗家に留まることを得たかと云ふに、是は沢が夫の到底文仲を養ふに意なきを見て、文仲を家に迎ふることを断念し、霧渓を養ふことを賛成したからである。霧渓は文仲の旧弟子であつた。天明四年生の霧渓は当時十八歳になつてゐた。その公《おほやけ》に稟《まう》して養嗣子とせられたのは、此より十五年の後、文化十三年三月である。瑞仙の死に先《さきだ》つこと六箇月である。霧渓は既に三十三歳になつてゐた。
わたくしは此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春|去後《きよご》に霧渓をして家を継がしめたのは、玄吾の生父初代玄悦が玄吾去後に岡本|玄迪《げんてき》をして家を継がしめたと、其迹が甚だ相類してゐる。玄吾と杏春との間には、実子と養子との別はあるが、その父の後妻に悪《にく》まれたことは同じである。又杏春が他年一家を樹立して宗家と相譲らざるに至つたことも、其生父の廃儲《はいちよ》であつた有斎玄吾と相似てゐる。
わたくしは此より池田宗家を去つた後の杏春|改《あらため》瑞英の事蹟
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