記の数人ではなくて、杉本仲温、渋江|至公《しこう》である。杉本仲温は「表御番医師、後奥詰、下谷御成小路」と、武鑑に見えてゐる。渋江至公は必ずや武鑑の「渋江長伯、寄合御医師奥詰、後奥詰御医師、三百俵十人扶持、新道一番町」であらう。並に錦橋が奥詰医師となつた後の同僚である。仲温は「池田錦橋先生、蒙召自京師至焉、与余同僚于内班者十年矣」と云ひ、又「渋江至公及予、与先生交最深」と云つてゐる。
その二百二十六
わたくしは既に池田京水自筆の巻物に拠つて、錦橋初代瑞仙、其妻、其僚友の事を叙した。妻には子が無かつた。宗家を継いだ三世瑞仙|直温《ちよくをん》の親類書錦橋の条には、末に「善卿総領、池田瑞英善直、母は家女」と記し、其廃嫡、其全快と別宅住ひとの事、其死が註してある。是が直温に由つて書かれた京水の事蹟である。錦橋は池田|杏仙正明《きやうせんまさあき》の実子であつたに、「家女」に子を産ませたと云ふは、何の義なることを知らない。
錦橋の養嗣子にして直温の生父なる霧渓《むけい》は、養父の行状にかう云つてゐる。「嘗游于藝華時。妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」錦橋の子を
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