にして其継嗣なる成緒《せいちよ》の子である。
 既に此の如くなれば、関五郎の身上にはもはや問題とすべきものは存してをらぬ筈である。しかしわたくしは猶関五郎を以て問題としなくてはならない。
 先「関五郎」とは関氏にして通称五郎であるか。それとも関五郎と云ふ三字の通称であるか。諸山陽伝を閲するに、是だに未だ確定はしてゐない。諸書には大抵「通称関五郎」としてある。即ち三字の通称である。
 若し三字の通称であつたなら、山陽は何故に「五郎」と喚《よ》んだか。又復等に代る書に士人たる関五郎が何故に其氏を省いて、単に通称のみを署したか。後者の如きは、わたくしは殆ど有るべからざる事だと思惟する。且関五郎にして果して藤陰ならば、其兄|鳧翁関藤立介政方《ふをうせきとうりふすけまさみち》の単姓関を称したのと、藤陰の関氏を称したのと同一の理由があつての事ではなからうか。是が疑の一つである。

     その二百八

 関藤藤陰《せきとうとういん》は備中国吉浜の社家関藤左京政信の第四子で、六歳の時医師石川順介直経に養はれ、石川氏を冒した。その本姓に復したのは維新後の事である。阪谷朗廬《さかたにらうろ》の集中「戊
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