代つて一切の簡牘《かんどく》を作つた。曾て森田思軒の引いた十月十八日復の小野泉蔵、同寿太郎に与ふる書の如きは其一例である。文中里恵のために分疏して、「当方後室も泉蔵様始家内御一統へ宜申上候様被申付候、未大喪中同人よりは何方《いづかた》へも書状相控罷在候」と云つてある。
然るに此関五郎の誰なるかは、久しく世に知られずにゐた。明治二十六年より二十七年に至る間に成つた思軒の書には、猶「関何人にして頼氏喪中の事を経紀する殷々此の如くなるぞ」と云つてある。当時山陽の事蹟に最も精《くは》しかつた思軒さへ、関五郎の誰なるかを知らなかつたのである。
今は人皆関五郎の後の関藤藤陰《せきとうとういん》たることを知つてゐる。関五郎が日本政記の校訂者であつたのを思へば、その藤陰なるべきことには、殆ど疑を容るる地を存ぜぬのである。わたくしは小野節さんの口から親く関五郎の藤陰なることを聞いた。節は上《かみ》に引いた復に代る書を受けた泉蔵|達《いたる》の裔で、継嗣順序より云へば其孫に当る人である。わたくしは又関藤国助さんの「関五郎は藤陰の事に候」と書した柬牘《かんどく》を目覩《もくと》した。国助さんは藤陰の女婿
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